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「高慢ちき」なのに「卑屈」

比較的何でも思い通りに人生が運んでいたら、
自分みたいなタイプの人間は、
もっと「高慢ちき」になっていた気もするし、
調子にも乗っていた気もする。

人生「これくらい」で、丁度よかった気もする。

そもそも、今もう既に手にしている「健康」「平穏」「幸運」は、
自分に巡ってきて「当然」だったもの?――いやいや、それは違うだろう。
「当たり前」のものなんて、この世に何一つないと私は思う。
そう思える、「謙虚さ」のほうを、忘れずにいたい。

また、
「自分はもっと大切に『される』べきなのに」って、
――いやいや、そこもまた少し順番を間違いがちだ。
それははじめに「他者に」負うところではなかろう。
(まだ幼児ならともかく、少なくとももう成人している人なら、)
まず真っ先に「自分が自分を」大切にしないとね、と思う。
順番が狂っていると、そのせいでその先も間違う。
(自身が自分を粗末に扱いながら、でも人には大切にされたい、ってのはやっぱりちょっと順番が逆だと思う。)
(けど、この順番がなかなかどうして狂いがちだ。)
(やはり「卑屈」と「謙虚」をつい混同してしまうからだろうか。)
(自分も内心でそういうところがある気もするし、――そしてこういう人って、意外と多くないです?)

「謙虚」と「卑屈」は違うものである。
でもその二つって割とパッと見では似ているものだから、
取り扱い注意というか。
(という話は前に書いたので、今回はまた別の角度から考えてみたい。)

「卑屈」のほうは、そうなり過ぎてしまって、
で、それをどこか精神内でバランスを取るために
「卑屈」と似ている「謙虚さ」のほうを減らしていってしまう、
……みたいな「うっかり」も、自分にはこれまであった気もする。

例えば、今のこの「健康」も「平穏」も続いていくほうが当然で、
何なら自分には更なる「幸運」もまた巡ってくる「べき」だ、とか。

うーむ。

「卑屈」にはなりたくないのに、なりがち。
「謙虚」にはなりたいのに、なかなかなれない。

……うぅーーーむ。(笑)

「自尊心を持て、そのためにも謙虚であれ。」
と、自分自身に対して、あらためて、強く思う次第である。



「卑屈」って、「ある種類の他人」からは、
「ちょうど手頃な踏み台」にされてしまいやすいもののようだ。
(「人を助ける」と「踏み台になる」は別物である。)
「卑屈になる」→「他人の踏み台になる」→「ますます卑屈になる」→……
という負のスパイラルも、なのでまたそこに形成されやすくなる。

理不尽なものは、払いのけていいはずである。
人は人の「踏み台」になるべきではないし、
人が人を「踏み台」にしようとしてもいけない。

で、払いのけた上で、「謙虚」でなければならない。
そうしないと二つは似ているから、
「謙虚さのほうを」持っていない人に傍から見えてしまう。
――いやいや、「人からどう見えるか」を先にしても仕方ないのか。
「自分から自分という人間が、どう見えているか」を、
まずは確認したいところだ。

「自分は自分をどういう人間にしたいのか。」

「謙虚」でありたいと、あらためてつくづく思う。
――そう、繰り返しになるが、
「自尊心」も携えながらそれができれば、尚良し、である。

何故なら、そこに自尊心がないと、
「いかにも謙虚っぽい卑屈」に、うっかりなりやすいからである。

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