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「その時、その場限りの魔法」

「昔はよかったね」ばっかりを言っているのは、我ながら発展的ではないと思うけれど。

でも、「昔にあった力を、部分的にでも、今に蘇らせられないものだろうか」と思案するのは、私は、悪くないと思う。

――これ、「リアルタイムで当時を知っている人間」のほうが、分析もしやすいはずだし。


で、こんな前置きから、何を言いたいのかと言うと。

一昨日、80年代に一世を風靡した「大映テレビドラマ」の一作品を取り上げたのだが。


そこにいただいたコメントに返信を書いていて、ふと、気づいたことがあったのだ。

それは「今、再現しようと思っても、これは出来ないものなのか」ということだ。


そういえば、今年の年始に、「マツコの知らない世界」IKKOさんをゲストに迎えた回、五社英雄監督作品の映画特集コーナーを見ていてもそれは思ったし。


あと、私が最も興味があるところで言えば、「昭和歌謡界」であろうか。
――実は、きっかり80年代に入る辺りからはリアルタイムで見ていた記憶があるのだが、それ以前、70年代より前の時代は、実はあんまり憶えてはいなかったりもして、なので俗に言う「後追い」とも言えるところではあるのだが。
でも、そこら辺の年代も含めて、私は大好きなのである。



いや、今見返すと、「めちゃくちゃだな」と感じる部分はあるのだ。
しかし、何て言うか、今の時代にない猛烈な「熱量」を感じるのである。

こういうのって、計算して今から作ろうと思っても作れない。
(「パロディ」として作ることはできるだろうが。……てか、どうしても「そっち」になってしまうだろう。)

大袈裟な言い方になってしまうけど、こういう、ものを作る方々、ひいては世間全体の空気の中に、通常モードでも「狂気」がどこかに入っていた気がして。
(もちろんこれは「良くも悪くも」なんでしょうけど。――だから「全肯定」する気もまたないんですけれども!)



今時って、音楽も映像作品も、小説なんかも含め、どの作品も「質」は高いと思う。
言うなれば、「丁寧に」「緻密に」よく作られた作品が多い。
(そうでない作品は、自然と淘汰され、表にすら出てこなかったり。)

しかし、「狂気」「滅茶苦茶さ」は、その分、どこか足りない気がする。
――いや、それらは「必須」ではもちろんない。(笑)
――ではない、の、だけれども!

そういう作品が、なかなかどうして、どこにも見当たらない、この現況。
――まあ、アンダーグラウンドでは、今でもたくさん作られているのかもしれないが。

でも、「世間」という「地上の世界」に、それらの「狂気」が持つ「勢い」が、どこにも見当たらない、放たれていない、というか。

「その場、その時限りの魔法」が、「流行」「大衆」の中には、どこにもかかっていないというか。

早い話が、全てが「公約数」で、「小綺麗」ではあるけれど、「匂い」がしないというか、「ピカピカツンツルテンしているだけの無機質な光」にも、どこか感じられてしまうわけだ。

――やはり、「インターネット」の普及の影響が、ここには大きい気がする。

大映テレビも、昭和歌謡界も、その流行りし頃には、インターネット環境が各家庭に普及されているなんて、想像すらしていなかった頃だし。
(そういや、その初期の頃は、録画できるようなビデオデッキすら、持っている家庭はごく稀、限られていた時代だった。)
(だからなおさら、ウン十年後に、インターネットなるものがこれだけ手軽になり、「youtube」とやらで繰り返し視聴されるなんて、当時はまさか思いもしていなかっただろう。)

だから、今よりずっと、「一時代性」という側面が強いというか。
「とにかくまず何を差し置いても、今、強烈に輝かなければ!」というような、結果的にどこか「刹那的」な要素も多分に含むことになる、そんな感覚の、エンターテイメント世界だったように思う。


その反対に、今は、大衆に向けて作られるものって、意識のどこかに、「永代まで残る」というのが、常に、どうしてもある。

だからこそ、いつの時代に見返しても「恥ずかしくないもの」という観点が出てくる。
――いや、これは本来、評価すべき「良いこと」なんだけど。


「ぶっ壊してやれ」とか「やっちまえ」とか、そういう「後先考えない」勢いがない。

「上質であること」最優先。

しかし、「いつの時代にも通用するような高品質」をとることで、取りこぼすものは、確実にあるんだよなあ。

そして、冒頭に戻るが、「今、再現しようと思っても出来ない」この「何か」である。
――そうなのである。
捨ててしまえば、実際それは、再びは生み出せなくなってしまうものなのである。

うーん。

私も、例えばここに書くものって、「ずっと残る」前提で書いていたりもするんだけれど。

その「ちゃんとしたものを書こう」みたいな意識の分、「勢い」みたいなものを、削いでしまっている可能性は高いわけだよなあ……。
なんてことを、ふと思ったのだ。

――って、一昨日の「ヤヌスの鏡」から、よくここまで考えたものだよ、我ながら。(笑)

でも、2023年、春節。

自分の中の「大沼ユミ」が、目覚めるのかもしれない。
(やめろ!笑)