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「勉強」について

「何故勉強をしなければならないか?」
「将来何の役に立つのか?」

この問いへの答えは、人によって、
あったり、なかったり、
あったとしても様々なものだろうと思う。

私も、私なりの答えは持ち合わせている。

が、それは「私の答え」であり、
その勉強をする当事者の答えではない。
(たまたま近いとか同じということはあり得るけれども。)

「勉強をする目的」は、人の数だけあっていい。
(だから様々な科目を、内容を、取捨選択できるようにしておけたらいいとも思う。)

私も高校生くらいまではうっかりしていたのだが、
勉強は、「やる」ものであって、
「やらされる」ものではないはずだ。
「他人事」ではなく「自分事(造語)」なのである。
そうでなければ、
あんなに頭が疲れること、
とてもじゃないがわざわざやる気にならないじゃんね?
というところである。
(本来はね。笑)

そういう前提に立っていいものであるならば。

「学校の勉強の全科目をそれぞれなるべくいい成績で」
という学生時代に掲げられがちなスローガン(?)は、
少々窮屈だなあ、と私は思う。
――なんだけど、
でもこれ、自分も、
当たり前のように、中学くらいまでは思っていたなあ。
擦り込まれていたというか。

得手不得手があるのが、人として自然なわけで、
でもこういうスローガンを掲げられると、
せっかくの「得手」部分のほうを伸ばす気力まで
奪われもするように思えてならないのだ。

もちろん、先述したとおり、
「様々な科目・内容」を、
「よかったらどうぞ」という形で、
手を伸ばせるところに
提示して並べておくことはよいことである。
いろいろな勉強の「味見」ができるいい機会であるから、
学生時代というのは。

でも、それを
「どこまで」「どのように」やるかまでは、
いちいち他人が決めて押し付けることでは本来ないはずである。
そういうことまで「こうするべきだ」と口出しすることにより、
勉強は、「自分でやるもの」ではなく
「人からやらされるもの」になってしまう、ともまた言えるのではないか。

あるいは、結局、
「私は学生当時『我慢して』やっていたんだから、
お前も私と同じように苦しめ」
みたいな思考回路で、
勉強を下の世代に押し付けたりはしていないだろうか。
勉強は(とくに受験等を考えると)
「トレーニング」的要素が必要になることもあるから、
脳に負荷をかけるという意味で、
「苦しい」「我慢」はあってもいいのだが、
でもそれはあくまで自分がやりたくてやる
「苦しい」であり「我慢」でなくてはならないのである。


みんな一律の内容、
そして場合によってはその目的まで、
(繰り返すが、勉強に、必ずしも「目的」なんていらないはずである。)
(別に「知りたいから」というそれだけでも、
とりあえずいいではないか、ということである。)
勉強について学生に押し付けることで、
かえって「無気力」みたいなものを
育て「続けて」いる気が私にはするのであるが。
(つまり、これは別につい最近始まったことではなく、
少なくとも私が学生だった大昔から見られていたということです。)

そんなにしてまで、
すべての人を「ロボット」化したいのであろうか。

「指示待ち」「とことんプログラムされた通りに動く」うえに
「我慢強い」みたいな、
既存の何かのコピーかのような、
そんな人材が、
「使い勝手が良い」なんて思っているのであれば、
社会自体もまたいずれ
「変化」や「代謝」、「育つこと」を忘れていくだろう。
(そういや「人材」って言葉自体も、そもそもなんとなく私の中では印象悪いんですよね、使い方によるとは思いますけど。笑)

ロボットは、
プログラムされた以上には「勝手に」「思いがけない方向に」
育って変化していくことはないから、である。