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「自罰的」禁止令

はじめに、この記事のここの部分について。

「楽しい」「楽しむ」基準で、「生きる」を組み立てたいと、この頃自分もつくづく思っており。
(わかりやすい「楽しみ」でなくてもこれはいいんだけど。――「心が自然と前のめりになって、熱中すること」早い話が「気の進むこと」とかって、だいたいそうなんじゃないかな?)

では、「わかりやすくない楽しみ」って何よ?というところなんですが。

例えば。

もし自分が今から、病を患い、日常生活にも支障をきたすようになったとしたら、当面の「望み」「目標」は、まず何より「治療して回復させ、元の健康な身体をとり戻す」になるかと思うのである。
そして、回復を辿る経過の中で、「やった~、これができるようになった」とか「これが食べられるようになった!」とか、そういうのって、何にも代えがたい、最上の「楽しみ」になると思うのだ。

――と、我ながら極端な例を挙げたと思うけれど。(笑)

その時どきで、「自分が一番何を望んでいるか」「どうしたいのか」。

例の場合なら、「健康を取り戻す」というのが、わかりやすくはないけど、きっとその時の一番の「望むこと」であり、その結果が「楽しみ」になるのだと思う。

つまり、「楽しみ」とは別に、飲み会とか、行楽とか、テレビゲームとか、そういうわかりやすい「短期的・短絡的な楽しみ」だけではないのだ。(もちろん、そちらはそちらで大事だし、全く否定する意図はない。)

――心がどこか、乗り気になる、前向きになる、そんな時間(これもその時どきでその「内容」は様々に違ってくる、ということになると思うのだが)で、なるべく日々をより多く埋めていけたら、それに越したことはないよなあ、という、そんな思いで、私はこれを書いたのである。




「叶う当てのない夢」だって、見ていいのだ。
「純然たる夢」の状態であれば、それは概して「楽しい」ものである。

しかし、例えば、それを比較的長期間「叶わぬまま」で抱えていたりする。すると、場合によってはだが、妙な「余計な意識」も、そこに混ざってきたりすることも多々あったりもするものである。
――例えばそれは「不安」「不満」、転じて「打算」、そこから人や運命に対しての「疑心暗鬼」……等々。
それらが蔦のように絡まり出すと、せっかく元の「夢」が持っていた「楽しさ」が、自由を失い、「変質」していつか「別物」になる気がする。


「過ぎたるは及ばざるがごとし」とはよく言ったもので、考える作業など「一生懸命」もまた、あまりに「過ぎる」と、「負」のツタが、伸びてくる感じがするわけである。
――まあ、早い話が、「どよ~ん」としてくる気がするのだ。

「どよ~ん」は、重い空気だ。
――そんな空気の中で、「心が自然と動き出す」という状態ではなくなった場合、そのものについては、一度、扱い方を見直すべきなんだろうなあ、と、(我ながら)思う。




そうそう――そういう「どよ~ん」を発生させやすい仕組みとして。
何だか「自罰的なのが美しい」みたいなのも、自分の中では「廃止したい」感覚である。

一生懸命は素晴らしいけれど、それが「うさぎ跳び」になってはいけない。

「うさぎ跳び」――苦しいだけであまり効果が上がらない、何なら苦しみへの免疫をつけるためだけにあるような(謎の)「訓練」であり。
そして、そんな「鍛え上げられてしまった苦しい」は、「楽しい」を、殺しかねないのだ。
(もちろん、「苦しいけど、これがやりたくて仕方ない」というのならそれは「楽しい」なので、話は別だけど。)

――この頃思うのは、「自分をも、他者だと思って、公平に審判していこうと思う。」ということである。
「他者に比べ自分にはより甘く」というのはよろしくないと思うけど、一方、「他者に比べ自分にはより厳しく」というのは、行き過ぎると、これもまた、「自分を殺す」ことになりかねない。



「自分を生かさねばならない」使命を負っているのは、誰よりも、まず真っ先に「自分」だろう。
――他の誰かに、それはやたらとお願いすべきところではないはずだ。

ならば、自分で自分を「生かす」には、どうするのが「ベスト」な状態だろう??

――と、考えてみると。

そのためにも、自分と言うものに、何でもかんでも頭ごなしに「厳しい目を向けてればそれでいい」というものではないと、私は思う。