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原点回帰-人見知りに「戻る」?-

子供の頃に「人見知り」だった人って、結構いるだろうか?

で、大人になるにしたがって、そうでもなくなってくる人もまた、多いものだろうか?

私は、子供の頃は人見知りだったが、ある所からそこまででもなくなり――しかし。
最近、「自分、また人見知りに戻ってもいいかもしれないな?」なんて思い始めているのである。


一つ前の記事で、子供の頃の自分の「コンプレックス」について例を挙げて書いたが、「人見知り」というコンプレックスもあった。(書き忘れていた。)
それは今思い返せば、軽度の対人恐怖症みたいなものだったかもしれない。
少なくとも、すぐには人と打ち解けられない。何だか、人に悪く思われることを極端に怖がる感じというか、ちょっとしたことで「悪く思われているのではないか」と不安になるというか。

しかし、これについては幼少期にずっと「克服したい」と強く思っていて、そして実際、十代の頃のうちに、うまく克服できた。(と、思う。)
例えば、何故人に話しかけるのに、強い躊躇を感じるのだろう?と、自己分析――つまりそのことについて自分の胸に手を当ててよく考えてみたのだ。
それで「あれ?何だか、人に悪く思われることを、敏感といえるくらい、またはもしかすると被害妄想のように、あまりにも恐れすぎていないか?自分。現実はそこまで恐れる必要ないんじゃないか?」と気づけた。
その上で、「別にこちらが何も悪いことをしていないのに、またはまったく悪意がないことについて、いきなり悪く言ったり思ったりする人については、気にする必要がそもそもないのでは?」とか、
「この世のすべての人に好かれるなんてできないのだから。相性というものはあるし。」とか、
そのようなことを徹底的に、自己暗示のように自分に繰り返し繰り返し言い聞かせまくった。
とにかく「人見知りを克服したい!」という「念」は、強かったと思う。
「人をそこまで恐れることはない」というその繰り返しの「言い聞かせ」が功を奏して、ある所から、ストンと、対人恐怖的な人見知りは、鳴りを潜めたような気がする。

そこから三十年ほどが経過した「今現在」である。
概ね、誰とでも、まあまあすぐに打ち解けられるし、明るく会話もできるし、場合によっては冗談なんかも交えることもできる。
しかし、最近、ふと思ったのである。
「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものだ、と。――つまり、「人見知り」は、やはり「人見知り」のままなのかもしれないな、と。

自分というものをうまく「操縦」できるようにはなったのだ。歳を重ねるにしたがい、ますます上手に。それは確かだ。
しかし、人とそうして活発にやりとりすることが、そういう場が、好きかというと、「どうだろうな?」という感じなのである。
(ここのところ、「自分で自分に正直に」と意識的に仕向けていて、これはその結果の一部でもあるとは思う。)

人と打ち解けるのがうまくなくて「人見知り」である自分にコンプレックスを抱いていた十代前半までは、「自分を変えなくては!変えよう!」なんて、切実に思っていたが。
いざ、表面的に、行動形態を、かつての理想通りに変えてみた。そういったふうに「コントロール」できるようには変えられた。――が。

「自分そのもの」は、実は別に変えられていなかったし、そこまでを「変えなきゃ」とは、もしかすると自分でも、思っていなかったのかもしれない。

つまり、私は、実は根っこは、ずーっと、始めからの「人見知り」のままなのではないか。

それが証拠に、一人になると、ホッとするのだ。
例えば仕事の休憩時間は、一人になりたいと思うのだ。
一日のうちで、一人になれる時間が、正直一番好きだ。
「誰かといる時間」「ひとりでいる時間」のうち、どちらか片方だけが永遠に続くとしたら、私は「一人の時間」を、迷わず選びとるだろう。

また、元からの「人見知りな魂」みたいなものまでもを変えるべきとも、自分は、思っていなかったのではないか、ということについて。――そこまでを変えてしまった時、多分、自分は、自分でなくなってしまう、と思っていたのではないか。

ここのところ、自分の中で「自分で自分に正直に、を、極めよう」という意識が高まってきているのも、「自分に正直に」ということすら、意識しないとできない年齢なのだとも言えるかもしれない。

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よくよく思い起こしてみると、初対面の人と会話を続ける時も、職場で冗談を言って明るく話を盛り上げている時も、「どこかが力んでいる」自分を感じる。
もちろん、それが仕事の「ねばならない」のうちなら、まったく、抵抗もないし、嫌ということもないのだが。
「素の自分」は、別にそういうのを、積極的に自ら進んで楽しみにいくタイプでもないんだなあ、(やっぱりそうか……。)という感じだ。――それならそれで、いいんじゃない?ダメな事ある?という感じだ。
お酒の席も、これまで、表面的には「嫌いじゃない」と答えることが多かったが、実は正直になれば、これも自分で自分の胸に手を当ててよくよく考えてみれば、嫌いというほどではないにせよ、少なくとも「得意ではない」し、ましてや、知らない人や慣れない人がたくさんいる場所となれば、どちらかと言えば、いや、そういう人の割合が多くなればなるほど、はっきりとこれは完全に、「疲れる」「避けたい」と思うタイプのようだ。

……と、いうように、「自分というもの」に正直になっていくと、とっても、なんていうか「ラク」だ。
また、「自然」なので、無理しなくても、どこか、そしてどこまでも、薄っすらと、でも基本の土台部分から、つまり「心から」明るくもいられる気もする。

そう、自分というものを、その「表向きのキャラクター」については、十分に「調整」したり「操縦」したり「演出」したり、できるようになってきたわけだから、
もう、無理して「素の自分まで」変えようとすることもないだろう、と。

というわけで、自分は、「人見知り」である自分を受け入れて、「元々の自分」に回帰していこうと思うのである。

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