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「私は冷たい人間だ」と花見しながら考えていた

この記事で私は以下のように書いたもので。

強欲も、無知も、非情も、嫉妬も、依存も、執着も、怠惰も、虚栄心も、無関心も、不寛容も、不真面目も、自己中心的思考も、後ろ向き・消極的思考も、――なんなら「恥知らず」だって「人の心がわからない」だって、――つまるところ何でも、他人様のそれについては。
ただ「単にそれだけ、そこ止まり」だったら、(「好ましい」とは別に思わんし、また「好んで自分もそうなりたい!」とももちろん思わんが、)「人間らしさ」みたいな解釈で、自分は、少くとも最後には笑って受け流せる気がするのである。

この部分を筆者の「私ってば寛容なんですよ」アピールみたいに読まれた方も、もしかするといたかもしれないので(いないとは思いつつも、笑)、念のため言葉を足しておこうと思う。

断言する。
私は「寛容な人」ではない。
私は、ただ単に「冷たい」だけである。

私のこの「冷たさ」は、即ち「人に対して期待していない」というこの点に尽きる気がする。――あくまで主観だし実測できるものでもないので、「たぶん、」とつけてしまうのだが、平均的な人と比べて私は、「人との心の距離をずいぶん離してとっている」と思う。


私は、人は簡単には変わらないと思っているし、ましてや、自分が何かすることによって他人が変わるなんていうようにもまた思えない。(どんなに親しい人であっても、なので親しくもない人なら尚更。)

そして、上の抜書きの続きなのだが、

「アハハ、あるかも~?自分にもそんなところ~。」てな具合である。

とか続けているくらいだから。――自分すら変えられないのに、自分の事を差し置いて他人を変えられるわけなんて……ねえ?というところだ。(笑)

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以下もまた、先に上げた同記事の中に書いたことの言い換えであるが。
私は例えば「暴力的な人」「卑怯な行いをする人」「底意地が悪いことを実際にする人」なんかが大嫌いだ。――つまるところ、「人に対し悪意を持って実際に害を加えようとする人間」が大嫌いで、まったくそういう存在に対しては許容できない。
が、大嫌いで許容はできないのだが、しかし、そういう人たちを「変えよう」なんて、思わない。
思ったところで、概して、そうはならないからだ。

――どんなに強くこちらがそれを念じたとしても。
やはり、「人は簡単には変わらない」。
こちら側の気持ちがどのようであろうと、関係なく、そこに差は生じない。
と、私はこれまで、感じさせられてもきた。

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「そういう人」は変わらない。
「そういう人」は、どこまでいっても「そういう人」のままである。

私は、ただただ「冷たく」、大嫌いで許容できない「そういう人」と、接点を持たないようにするだけだ。
または、それが無理なら、距離をなるべくとるようにする。(どうしても距離がとれないようなら、もう「自分の所属する場所」のほうを変えてしまう。)
――そこらへん、私は容赦がないなあ、と、自分でも思う。

そして私はこうも思う。――「そういう人」は、せいぜいそのまま、例えば暴力的な世界の、卑怯な世界の、底意地が悪いことを互いにしあう世界の、その真ん中に、ずーっと、いつまででもそうやって自身を置いていればいいんじゃないですか?と。
(我ながら心せま~い。冷た~い。笑)

と、いうわけで、
こんな私のどこか「寛容」なのでしょう?(と、自分では思っておりますよ?笑)

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「暴力的な人」「卑怯な人」「意地の悪いことを実際に行う人」は、まるで「この世」自体が背負った宿命であるかのように、どうしようもなく、どこにでも、存在している。――多分、この先、それが変わることはないのだろう。
「そういう人」はいなくならないし、「そういう世界」もなくなることはないのだろう。

だからこの世で生きている限り、「そういう人」のつくる「そういう世界」と、偶々隣り合ってしまうこと、そこまでは仕方のないことなのだ、と私は思うようにしている。
――それはもう、この「現実世界」にいさせてもらうにあたっての必要条件、つまるところ、概ね誰もが避けられないことなのではないか
、とも。

(〈「いさせてもらう」だって? ……いや、この現実世界に、私はそもそもいたくているわけではないのだが? 〉という方も中にはおられるだろうとは思う。――しかしそこは、「悪意の人を恨むのはまだいいが、しかし、運命を恨むことなかれ」ということなのだと思う。
どうしても何かを、憎んだり呪ったり怨んだりということをせずにはいられぬのなら、運命のほうではなく、人の悪意のほうを恨もう!――そういう時のために、この世には人の悪意というものがあるのだから。」……というのはいつもの「私の持論の極論の結論」なので、つまり考え過ぎなので、良い子はなるべくホントにスルーしてね! 笑)(でも、こう考えるようにすると、「どうしても憎しみを止められない自分」について、「いや、自分は運命ではなくあえて選んで人の悪意のほうを憎んでいるのだ」みたいに、一段階俯瞰で見ることができるようになって「まだ少しはマシ」になる気もします。――とはいえ、そもそも、何かを恨んだり憎んだりはし続けないに越したことはないです!……わかっているんですけどね。笑)

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(話を戻して、)と、そのように、『「暴力的な人」「卑怯な人」「意地の悪いことを実際に行う人」がこの世に存在することはもはやこの世の宿命』、なんて現在の私は思ってはいるのだが。

昔の自分は、それをそんなふうに「仕方ない」とは思えなった。
いちいち、そういう人が、そういう世界が、存在すること自体に、結構本気で腹を立てていた。――それは「どうして?」と問う怒りでもある。
が、しかし。
その結果、何も変わらなかった。
ただただ、「自分の世界の機嫌」を悪くしただけだった。(そう、「世界」とは、実は割と「機嫌」でできているものなのだ。
あるいは、「どうしてあなたはそういうことをするのですか?」と、心で叫びながら心で問い続けたことも、いつかあったかもしれない。
――が、その何かしらの答えも、これまで「回答」という形で返されたためしがない。(もしそんなことがこれまでに一度でもあったならば、きっと、私の今のこの考え方も、少しは違っていたはずである。)
それは、「そういう人」がそういう人である理由なんて、(仮にあったとしても、あって)無いようなものだからかもしれない。――何故ならこの場合の、「そこは到底理解しがたい」は、「そこに理由はない」に、限りなく意味合いとしては等しくなるからだ。
畢竟、同じ世界にいながら、「そういう人のいるそういう世界」は、自分にとっての「別世界」も同然なのである。(と、私は考えるようにしたのである。)

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では。
自分の世界のほうを、「機嫌のいい世界」にする、あるいはその世界を「守っていく」のは誰か。
――無論、それは自分しかいない。

では、そうするために、自分はどういう考え方でいればいいのだろう?ということなのだ。

いくつか前の記事の繰り返しになるが。
もし世界を変えたいと思うなら、それは「自分」を変えていくしか、やはりないのだと思うのだ。

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私は胸をはって、人に期待などしない「冷たい人間」であろうと思う。

私は私の「(なるべく)機嫌のいい世界」を、自分自身で守りたいと思うからだ。
――だって、それを自分が守ってやれなくて、他に誰に守ってもらおうというのだ?

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※本当に本当は。

「人は変わる(こともある)」、と、私は思っている。
が、それを「他人が操作する」なんてできない。
(というか、良かれと思うほうへも、正しいと思うほうへも、それでも他人が「誘導しよう」などと「意図」してはいけない、と、私は思っている。)
(だから、仮に他からの影響を受けた上での場合ですら、最後は、)「自分というものは自分自身が変える」のである。――それが正しいと、私は思っている。

なのでもし、自分がどうしても「他人を変えたい」と思うのであれば、「自分が変わる」そのことによってのみで、何とかそれを成し遂げるしかない。――「自分を変えることによって他人を変える」だなんて、但し、それはとても難しいことだと私は思うが。(なので私はもうそういうことは考えないことにした、という今回の記事でした。)
(……やっぱり私は冷たい人間です。笑)