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「試されている」と思えば腑に落ちるとも言える

ある程度の年月を生きながらえていて、「何もない」人は、ほぼいないのかもなあ。
と、人の「試練」について考える。

環境の変化然り、人間関係然り、自身の健康然り、である。


「試練」については、文字通り、「試されている」のだと、私は思うことにしている。

これは、その「試練」の「せい」にはできないよ、ということでもある。
――自分自身の、その「人間性」とか「心の聖域」とか、それでも守りたい、崩されたくないのは、誰なのか?
自分自身こそが、そこを守りたいと思っているのではないのか?
それならば、である。
自分自身でなんとか、「自分というもの」を死守していくしかないではないか。(他に誰がそれをできるというのだ?幼年時代ならまだしも。)

そして、それらを守り通せた時、自ずと新たに「得る力」というものもあるかもな?とも、このところ感じ始めている。


「神様は、その人が越えられない試練をお与えにならない」
という言い方が、私は好きではない。
――「越えられなかった人」もいるからだ。
そういう壮絶な類の試練もある。
そう考えると、あまりに不公平だから、「神様っているのかな?」なんてことは、(あまりにも理不尽な出来事に遭遇する他者を見て、つまり、私自身のことを考えるとではなくて、)よく感じる。


神社やお寺や教会で(我ながら節操なくどこでもそうするのであるが、笑)手を合わせる時。
私は、「神頼み」はしないことにしている。
しかし、「こういう自分であろう」という、「誓いみたいなもの」は、そこの神に向かって立てていることが多い。
というか、これは、自分自身に念じている、ということかもしれない。


神には無論なれないが、「神様が見ている」その「俯瞰の視点」を真似るように、自分自身を見ることは、いつでも忘れないようにしたいものだ。