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「情報過多」のせいで時間の流れ方も早い気がする

歳をとったせいもあるとは思う!

――思うのだけれど。

でも、そればかりでもないような気がする。

このところ、時間の流れ方が、昔より異様に早く感じられるようになったのって、「一日に触れる情報量の多さ」も、関係しているような気がするのである。

つまりこれって、すぐに記憶が、新たに入ってくる多量の情報により、「薄まる」あるいは「奥に押し込まれる」感じというか。


「概していつでもどこでも好きな時に好きなものを」で、情報に触れられる。――視聴するものまで、可能になった。
なので、「読みたい・視聴したいもの」が、結構いつでも長蛇の列をなして順番待ちしている上に、瞬間的にも、スマートフォンを覗きさえすれば「新しい情報」を(それも、数分の隙間を埋める手ごろなサイズのものまでもを)いつでも「いくらでも新たに」引き出せてしまうわけで。

――「触れたい、触れなきゃ」な情報に、終わりがない。終わりが見えない、そんな状態。


「いつでもどこでも好きな時に好きなものを」で、情報に触れる。
――うーん、私の物心のついた時にこれができたのって、「紙で読むもの」だけだったよな?(「昭和」時代なので、「読むもの」の中に「インターネット情報」は含まれていない。)


対して現代って、「脳の中」が、インプットで、絶えず忙しいわけで。

――そりゃあさあ、時間の流れ方も、早くなって当然だよなあ。

数日前、少しショックなことがあったのだが、――で、大昔の感覚なら、心のどこかでそれを「一週間程度」引き摺るようなことだった気がするのだが。

何だか、2日くらい経った時点で、そのことが結構「薄まっている」自分に気がついた。

なんと、「悪い記憶」も、「忘れっぽく」なっているとは!
――いいね!
「♬歳をとるのは素敵なことです、そうじゃないですかぁ~
  忘れっぽいのは素敵なことです、そうじゃないですかぁ~」
という、中島みゆきさんの「傾斜」のワンフレーズが聴こえてくるね!
確かに素敵!(な、こともある!!笑)

とか、思っていたのだが――「はて?」とも感じたわけである。

なんとな~く、「時間の流れ方」自体も、変わっている気がしないか?と。
――どちらかというと、そっちのせいじゃない?と。

二日前すら、「すごーく昔」のように感じる、この感覚。

例えば十代の頃の「二日前」って、こんなに昔な感覚ではなかったような気がするんだよなあ。(十代にもなると「やることがたくさんあって」で、既に忙しく過ごしてはいた気はするんだけど。)
(――そしてもちろん今現在のこれは、「忘れっぽくなった」も手伝っているとは思うけれども。笑)


熱中している時って、「心が自ずと、その熱中しているものに対して、絶えず、隈なく、情報を求め、取り込みまくる」状態だから、時間の流れ方が早いわけで。

つまり、「時間の流れの早さ」と「触れる情報量の多さ」との相関関係は、確実にあるよなあ、と。


「感覚的な時の流れを、もう少しゆるやかに」と、もし、望むのであれば。――「情報量過多」の第一の元凶であろう「インターネット」から、遠ざかったほうがいいのだろうなあ。


うーん。

なんとなーく。(そう、ホントに、「なんとなーく」「漠然と」なのだが。)
「時の流れがあまりにも早い」この現況に、少し、違和感も、何なら不安感まで、覚え始めている。

そんな骨の髄まで「昭和テンポ」な精神の私なのである。(笑)