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「運命論」-基本的に私は漂流している-

「生まれてくる時代や環境は自分で選べない」
から始まって。

あらゆることにおいて、
何だか自分の人生とは、
「海の真ん中に浮かぶ一艘の舟」
という感じがする。


その船にエンジンはない。

もしかしたら、
小さなオールや帆くらいは
あるかもしれないが、
海の真ん中の、そのまた、
海流の中にあったり、
海風の中にあったりすれば、
そんなものは
ほとんど役立たない(ことも多い)。


――「運命上」では。
基本的に、
「私は漂流している」のだと思う。


しかしである。

私が浮かんでいる
この「海という世界」は、
「私が見ている世界」であるので、
「=私自身」である
ということがいえる、
ちょっと「不思議な海」なのである。
(通常の「海」からしてみれば。)

「私が存在している世界」
=「私が認識している世界」
であるから。
(これはどういうことかというと、
あくまで数例を挙げれば、
「自分があると確信していること」でしか
具体的に世界というものを
人はイメージできない、ということや、
あるいは、
元から全く認識していない対象を
「この世界に存在している」とすることは
自分の頭の中ではできない、
というようなことだ。
――「そういうこともあり得るかも?」
といった
「漠然とした定義」までなら
できたとしても。)

と、なると。

自らが転覆しないように、
「凪」の状態に
海を「もっていく」のは、
「自分自身」である
、ということ。

――これはなかなか、
気づいてみると面白い。


私自身は、
実は「無力な舟」でありながら。
――例えば「エンジン」とか
「この海の上を自由自在に動く
自分以外の動力」も持たないから、
好きな島を目指して
一直線に向かうこともできない。


けれども、
「自分が浮かんでいる海」そのものの
その「調子」は、なんと、
私自身の手の中にあるのである。


言い換えるとこれは、
「運命という海」の上では、
「自分が自分自身を
自由に動かせるわけでもない」
のに、
「自分がいる世界は自分次第」
ということなのである。


「船の種類」や
「海上の位置」は
自分では選べない。
――のだけれど、
「海」自体は、
凪の日さえ続けられれば、
そこに浮かぶ「私という船」は、
どこかにいずれ
辿り着けるのかもしれない
という。



――「運命」というものを、
これまでの実感を伴って、
こんな感じで私は最近
とらえるようになってきた、
という今回は話であった。