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自選雑記集-名刺代わりの10記事-

雑記ではないんですけど。
これまでに一度だけ、noteの「音楽記事まとめ」に紹介してもらって、閲覧数がグーンと桁違いに伸びたことがあったんです。
ちなみにこの記事でした。

そうか、こういう記事がより注目されたのであれば、これから自分は、音楽に関する記事を多く書いていくのがいいのだろうな。この記事をきっかけに私のページを再訪してくださる方は、音楽の記事を期待して来られるわけだし、……と、その時は思ったんです。

が、
不思議なもので、これで満足してしまったのか、この後、音楽関連の記事を書きたい気持ちが、弱まってしまったみたいなんですよね。

で、よくよく見渡してみれば、私なんかより、多ジャンルに渡って且つ大量に音楽に触れられている、音楽という文化への造詣が深い方は、いくらでもいらっしゃるわけです。noteで書いている方でも、また、それ以外の場所で書いている方でも。セミプロと言ってもいいのではないかと思える執筆活動をされている方もたくさんいらっしゃる。そして皆さん、音楽の知識だけでなく、文章力もまたあったり。
――うーん、そうなると、私ごときがそういう「文化的テーマ」で、浅い知識を基に何かこれ以上書いてもなあ、と思ったところもあり。(オタクの熱量だけで、つまり「勢い」だけで、とち狂ったように書けていたあの頃が懐かしい!笑)

で、こういう記事を書く作業って、無意識にでも「自分より明らかにすごい誰かと比べる」をし出すと、書けなくなるものなのかもしれませんね。――「それなりの数の方々が読んでくださる可能性がある場ならば尚更、自分の稚拙な文章力と浅薄な知識で延々と書き連ねてしまってもなあ。」と、そんな気持ちまで湧いてきてしまったら、ますます書けなくなってきてしまうわけであります。

と、言いつつ、――何故だろう?
私にとって「雑記」(「随筆」といえばいいのか)だけは、書き続けられるもののようで。――拙い文章力なのは変わりないのに? 音楽以外は更に、それはもうこの世のありとあらゆる全ジャンルにおいて、薄い知識しかないのに?

では何故、「雑記(随筆)」なら書けるのか?――と、よくよく考えてみれば。
それは自分の場合、「雑記(随筆)」は完全に、昔から主目的が「備忘録」だからなのだろう、と。
つまり、その時思ったことを後で見返せるようにという、「人に読ませる」以前に「自分が後で読む」が主目的として手前に大きくあるから、なのだろうと。

実際、例えば「こういうふうに考えていくと生きやすくなる」と思いついたものがあったとして、で、それを実践に移し日々の中にそれが定着したり習慣化してくると、割と「考えたこと」自体は忘れてしまったりするんですよね、自分の場合。(「趣味で熱狂的に愛好するもの」に関しては、何十年経ってもほとんど何も忘れないというのに!笑)――で、忘れた頃に、思考回路がまた元に戻って同じ穴にまた落ちる、ということも多々あり。(一言で言えば「アホ」なのでしょう!)
なので、「見返せるところに書き留めておく」ことには、意味があるんです。――と、まあ、これは「(忘れっぽいというかアホな)自分にとって」意味があるというだけなんですけど。(笑)

そんなこんなで、雑記・随筆もnoteに書き続けていたら、ずいぶんと数が溜まったので。
ここらで一つ、「自選」の「ベストセレクション」を作成してみようかと。

いや、何故「自選」にしたかというと、以前「いいね」をいただいた数を基にこの記事を作った時、以下のように思ったからなんです。

(この記事の締めの言葉から引用)
でも意外と。
「これは精魂込めて書き上げました!」とか、「おー、これは会心の出来!よく書けたんじゃない?」とか、自分でも思える作品や記事の中で、そこまで「いいね」が伸びなかったりするものも多く。

……と、そうなんです、こうふうに思ったわけなのです。
なので、思い切って「自選」。――「自分が10記事だけ選ぶとこうなります」というのを、ある意味自分の名刺代わり、自分という人間の自己紹介代わりに、提示してみようかと。――一見、自画自賛みたいになってしまうが。
いや、でも違うのであります! 
自分みたいな人間だからこそ、自分自身で「いいね」をそこに連打すべきである(できないけど)、そんな記事を、それなら並べてみようかと、今回はそういう趣旨なのであります!

(但し、そのベスト10の内で「更に自選で」順位をつけるのは、我ながら難しかったので、そこから先は「いいね」を多くいただいた順に掲載することにしてみました。)
(ですが今度は、タイトルや引用部分で「あなた様自身が」気になったりピンときたりしたものから、もしよろしければ、選んで読んでみていただけたらうれしいです!)

では、お待たせしました。
※いいね数が同数の場合は、掲載期間が短いものを上位にしました。

【1位】いいね数 23

「他人目線」を、参考程度ではなく、「完全なる尺度」として常に使い続けると、本来自分の中にあるべき「基準」が、他人のものにすり替わっている、つまり乗っ取られてしまうこともある。――それではいつまでたっても「本物の真面目」にはなれないんじゃないかなあ、と思う。



【2位】いいね数 14

「人生どうしたいか」だと、兎角外側に何かしらを求めてどうにかしていこうとする要素が必須になるけど、「自分がどういう人間に」の場合は、まず自分の内側からスタートするのでもかまわないわけである。――つまり「手っ取り早い」。
「人生をどうしたいか」からより、「自分をどういう人間にしたいか」からスタートを切って動いた方が、多分、思い通りにいかないことで地団駄を踏む機会も期間も、まだあるいは少なくてすむのではないか。



【3位】いいね数 11

自分の「本心」を機嫌よくできなきゃ、「機嫌よい」とは言えない。
ならば、機嫌の良さを、「演出」ばかりしても仕方ない。



【4位】いいね数 10

聖者でも修行僧でも自分はないのだから、「欲」が全然ないのは、少しつまらないと思うし、生きていく上で自分自身にどこか勢いもつけにくい。
しかし、くれぐれも「欲」と「不満」は、くっつけてしまわないうように気をつけたほうがいいんだろうなあ、と、――自分で言ってはみるものの。
「欲」と「不満」って、割と親和性が高くてうっかりくっつけてしまうんだよなあ。



【5位】いいね数 7

例えば、自分が「当たり前」と思っている「それ」は、この世に生きとし生ける人々全員が、もれなく必ず持っているものだろうか。
見渡してみて、それらを持ち得てない一定数の人の存在がこの世界のどこかに少なくとも思い当るのであれば、その時点でそれはもう、「当たり前」ではないのではないだろうか。
「生まれもって」備わっていたというのは、むしろそのせいで特にうっかりしがちだが、そもそも「当たり前」とは違うのである。


【6位】いいね数 7

選択肢は限られいたとしても(でもそれは老若男女問わずこの世のほとんどの人が同じことだと思う。望むままに無限に選択肢が用意されていく人はいない。)、でもその中から 「今、そしてその時々でいつでも、自分で選んでいる」 という実感が、自分にとってはすごく大切なのだ。
「自分で選んでいる」のに、その意識がない、あるいはその意識が薄すぎる時、人には不満が湧くのだと思う。
時々立ち止まって、「私はこの今現在を、自分で選んでここにいる」と、意識し直すことは、「不満」に飲まれないためには、わりと大事なことなのではないかと思う。



【7位】いいね数 7

「人為的」でさえなければ、「おそろしい」にも「かなしい」にも――例えばそれが天災であっても、疫病ですらも、――「怒り」は、自分の場合はあまり湧いてこない。
つまり、それを逆に言うと、「人為的なおそろしい」や「人為的なかなしい」には、人に対する「怒り」も必ずと言っていいほどついてまわってくるので、とにかく近づきたくないのである。



【8位】いいね数 6

人の感覚って、割と「絶対的」なものだけで構成されていなくて、「相対的」なものでもどうしても構成されている。
「人為的な酷いこと」を自分が感じるその分だけ、同じだけ、「ただの自然の成り行きだけではない」つまり「人が生み出したことによる」、素晴らしいや美しいもまた、この世に、というか「自分が感じられる」世界の中にはきっと、本来あるはずなのだろう、と。
で、「快・不快を感じる」センサーである自分は、本来それらの真ん中に位置していなければならないはずのものだし、もしその位置がズレているなら、真ん中に戻すようにしよう。――つまりそれは、今の自分であれば、もっと「この世界の、人が生み出した良いこと」のほうに、より更に目を向けるようにしよう、ということになる。



【9位】いいね数 6

「自分を捨ててまで尽くす」ということをする時には、その価値や意味があるのかはいちいち考えないといけないのではないか。――それを「考える」作業をすっ飛ばして、何でもかんでも「従っていれば丸く収まるんですもんねぇ~」の体で意思のない「自動的な滅私奉公」をしているから、私達にはどこか「不満」が生じてしまうことが多くなるのではないだろうか。




【10位】いいね数 4

〈コメント欄の自分の返信からの抜書〉
『「どう考えても不運」って、やっぱりあるじゃないですか。
で、それに会うのが、自分からみて、
どう考えても善人、みたいな方だったりすることも多い。
「何であの人なの?」っていうね。
「神様がいるなら、どうしてこんな不公平なことを?」ってことは、
いくらでもある。
近いところの知人を見渡しただけでも、散見されるんですよね。
泣きわめいて天を責めたてたくなるくらいにね。

だから、「神はその人が乗り越えられない困難は与えない」みたいなの、
有効活用できる方はぜひ大いに有効活用したらいいと心から思うのですが、
私にはどうしても「気休め」にしか聞こえなくて。

もうそれなら割り切って「神様はそこまで手を尽くしてはくれない」と
思ってしまうほうが、個人的にはいっそ心が休まる。
…罰当たりなのは、百も承知ですが。(笑)

「損して得とれ」精神でいくほうが、
自分としては盤石というか、余程しっくりくるんだよなあ、
というそういう記事でした。』



全然関係ないのですが、秋に咲くアジサイも、とてもいいものですね。
この間、低い角度からの陽射しと、ひんやりして更に澄んだ空気との中で、佇む姿を見つけて、あまりにも美しかったので写真に撮ってみたのです。(それが今記事の看板画像です。)
……でも写真が下手なので、全然その時の美しさや感動が伝わってこないですね。
(以上です。笑)


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