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感情は必ずしも目には見えない

外側に出す感情の大きさと
内側にしまい込んでいる感情の大きさは、
もちろんイコールではない。

――と、
自分の事なら実感としてわかるのに、
他人の事だと、やっぱり、
外側に出ている(見えている)感情の大きさで
測ってしまう。


なので例えば
「感情の起伏が激しい人」について、
見てしまうのは、
あくまで「外側の」
感情の起伏の激しさだけであって。

見えにくいけど、
または全く見えないけど、
「実は内側の感情の起伏が激しい人」だって
いるかもしれないんだよな。


例えば怒りについて、
ガツガツそれを顕わにする人って、
それを受ける側が感じるほど、
案外その怒りのエネルギー自体は
大きくないこともあるのでは?と
ふと思ったりもする。

いや、だって、
感情を表に出す事に
「躊躇」がないなら、
小さな怒りだって
ポンポン外に出してしまう、
ということにもなるだろう。
(場合によっては、
「拡声器」使って
あえてそれを大きくして。)


もちろん、
「小さな怒りは小さく、
大きな怒りは大きく出す」人もいる。
内外が一致している感じの人。


――いや、まとめよう。

何が言いたいかというと、
これまではそういう
「内外が一致している」人が
大多数と思い込んできたけど、
意外とそうでもないのかもな?と
最近感じ始めた、という、
そういうことなのである。


(念のため。

喜びも悲しみも怒りも、どの感情も、
内に秘める方がいいとか、
逆に溜め込まずに外に出していく方がいいとか、
そういう
「どっちがいいでしょう」話ではないです。
――そんなの、無論、
その人の性格もあるし、
それぞれの人が
したいようにすればいい。)

感情って、
つい「受け手側」が、
自分自身の感覚や
習慣的なものを
基準、手掛かりにして、
他人の感情のその強弱を
測らざるを得ないけど。

でも、そもそも、
自分の物差しでは、
他人の感情の強弱なんて
測りようがないんだよなあ、
と、思ったわけである。

「共感」は大事である反面、
「感情的なもの」に
(そのうち発信者が
意図的に強く発しているものは特に)
うっかり、
巻き込まれないように、
飲み込まれないように、と思う。


でもそれはまた、
「無視」とは違う。

単に「表出している感情」の
その「表向き」でしかないものの
「強弱」は、
一旦排除して判断し、
その「中身」「本質」を
取り出せるようになりたい。

他者の心の中について、
そういう「鋭さ」を持ちたい、
ということである。


たとえば、
「人が内側に秘めている」
静かな感情については、
こちらも、音を立てずに、
静かにしているほうが、
感じられることも多くなる気もする。


感情は、騒がしくなってもそれは
「耳に入ってくる実際の音」ではないから、
多分、
自分の胸の内側を静まらせる事が
肝要なんだろうな、
キャッチするには
それがいいのかもな、と。


――とはいえ、ここで、
「必ず感じられるはず」
と思い込むのは、
ただの「過信」だけど。

基本はやっぱり、
人の心の中は見えないもの。

「決めつけ」は、
「自分の声」でしかないから、
一種の「ノイズ」にも
なってしまうのである。