「盲目的な愛」は、それ、愛じゃないと思う
愛するものの中身にだって、 嫌いな部分や間違っていると思える部分が混じって含まれてしまうのは、 むしろフツーの事。
――そういう部分ひっくるめて愛するのが、愛だよな、と、私は思っている。
まず。
「何でも絶対的に跪いて従う」ような、「絶対的」言うなれば「盲目的」な愛は、それ、本来の「愛」とは別の類の「愛」だと私は思うし。
(すると、「そっちの愛」の対象は、「絶対こうでないといけない」みたいな、妙な「縛り」が出てきたりするものだ。)
そして、――国でも人でも物事でもなんでも。
「すべて自分が思い描いた通り」でなければ愛せないというなら、たぶんその人は、 この世のほとんどを 「本当には」愛せないんじゃないだろうか。
だって、「自分の頭の中で思い描いた通り」と完全に一致するものなんて、 この「現実の世界」(「個人の頭の中の世界」ではなく)には、まず「実在」するわけがないのだし。
自分の周りのすべて、 人も物も何もかも、 自分の思い通りになったら?
……結構そんなのって「怖いこと」だと思う。(笑)
思い通りになんか、ならなくていい。
――全部の花びらも葉も、一ミリも違わない花束があったら、そんなの「造花の花束」だよ、つまり「生きていない」ということに等しい思うんだよ。
特に「人(他者)」。
――「私の」思い通りにならなくていい。
むしろそうなってもらったら困っちゃう、 持ち物でも人形でもないんだからさ。(笑)
「その人本人の思い通り」になっていること、 それが一番、大事なことだし、まあ、こちらとしても、それこそがうれしいことではありませんか。
(自分だって「誰かの思い通り」になんかなりたくないしね。笑)
「本当の姿」は、人の数だけあるのだし。
「現実」がそうならば、 何かに向ける愛の形や姿も、人それぞれ、バラけていていい。
――いや、だってそうでないと、 自分みたいな「少数派の中でも特に少数派の人間」は、 居場所がなくて困ります!(笑)