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夢と欲が止まらんのは「まだまだ成長期」という証
ナニ?「まだまだ叶えたい」だと?――ならばまだまだ成長しろ!
と、言われている気もする。
いや、今現在、既に心身共に健康な状態を与えていただいているわけであるからして、(何よりありがたいことである。)ならば、「あとのことは自分の力でなんとかしろ!」と言われても仕方ないし、――そう、もし「神様みたいなもの」がいたとしたなら。
「お前、いくらでも、何とでも、自力でまだできるはずだろ?」と、そう言われるのではないだろうか?
(という、今回のこの記事は、数日前に書いた「神頼み」の話の「補足」であろうか。)
※毎回、名前のない漠然とした「神様みたいなもの」の話なので、何らかの「具体的な神様」とは、毎度のことながら関係ないです。
既に様々なものを与えていただいている――にもかかわらず。
それでも飽き足らずに、自分の中からどうしようもなく、何かしらの「欲」が湧いてくるのだとしたら。――それこそが「心身ともに健康で元気である」ことの、この上なく判りやすい証拠、とも言えるかもしれないわけで。
(私なんか、頭が痛いだの、咳が止まらないだのになっただけで、あれだけしぶとかったすべての欲も夢も、一時的とはいえ、全てどうでもよくなるというか、雲散霧消してしまうくらいだもんなあ……って、まあ、そんな意志薄弱な私個人の例は、この際いらないですね。笑)
だから、尽きせぬ夢も欲も、それはそれでいいのであろう。
それは、「人として伸び盛りなようだから、是非とも更なる成長をしてくれたまえ」あるいは「君はまだまだ未完成だ」という、天からのお告げ、みたいなものなのかもしれないのだから。
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「満ち足りました」「もう何もいりません」と心から感じられた時が、本当の意味での(精神の)「成長期終了」の合図なのかもしれない。
と、いうことは。
「諦められない欲」ばかり、「叶えきれない夢」ばかりが、溢れてきて溢れてきて、頭や胸の中にあればあるほど、もしかすると我々人間は、精神の「成長期度合い」が高い、とも言えるのか。
更にその解釈を進めれば、夢とか欲とか、そういったものの形を借りて、「自分に人としていまだ不足している何か」を求めさせ補わせようと、あるいは、「まだまだ人として足りないんだよ、未完成なのだよ」ということを知らせようと、無意識や精神が、してくれているのかもしれない。
と、考えるなら。
「叶えて完了」「満たして終了」ということ、――つまり「求めている夢そのもの」「満たしたい欲の対象そのもの」が、実は肝要なわけでもない、とも言えるのではないだろうか。
極端な話。
夢は、叶わなくていいのだ。
欲は、満たされなくていいのだ。
それで「終了~!」と満足のホイッスルが鳴ってしまったら、「成長過程」もそこで止まってしまうからだ。
――と、そう仮定するならば。
そうして終わってもまだまだ更に、「飽くなき夢」「次なる欲」とすぐ進みたがる、そんな終わりなき「貪欲」の「欲深」もまた、それはそれでいいものなのかもしれない。
――と、俯瞰で全体を見て軽く思いこんでおいたほうが、「いつまでも叶わない」「なかなか満たされない」と、いちいち落ち込んだりしなくて、これまたいい気もする。
だって、「不機嫌」も「深刻」も、せっかくの伸びやかな人の成長を、いかにも妨げそうではないか。
「叶わない!」「満たされない!」と藻掻くことこそが、「人の成長」につながる。――それを追い求める過程で、悶絶し、試行錯誤し、あるいは七転八倒しながら、鍛えられていく部分もあるし、賢くなっていく部分もある。
「叶えた」「満たされた」(あるいは「叶えられなかった」「満たされなかった」)という結果の「点」よりも、そこまでの過程の「線」をどう描くかのほうこそが「成長」であると、考えてみるのはどうだろうか。
――もしかすると、人にとっては、実はそちらの「なかなか叶わずどこまでも延びていく過程の線」こそが、その「成長」には必要なものなのではないだろうか、と。
まだまだ「叶わぬ夢」に、あるいは「満たされぬ欲」に、悩み悶えながらも、でもカラッとそれをどこか面白がりながら、更なる成長を遂げようではないか。
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