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「蛮行」と「狂気」

他人が繰り広げる「蛮行」を見ていると、
(この世のいろんな場所でいろんな形で
行われておりますな、相も変わらず。)
ほとほとこの世の中が厭になるのであるが、
しかし、それもまた間違いなく
人によって作り出されている「人の世」の側面である。

例えば、
他人の「狂気」みたいなものに直面し続けた時、
やはり人はどうしたってシンクロしてしまう部分がある。
――あるいは戦時下で行われる「蛮行」然り、
「何故そんなことまで??」と思うのだが、
きっとそういうことなんだろうなあ、なんて勝手に思っている。
(いや、だってあんな「殺し合い」の状況下にいたら、
「狂気」が「狂気以上」へと更に歪み出す人がいても、
おかしくはないのではないだろうか?)
(とはいえ。
「仕方ない」とは言っていません。
どんな状況下であれ、「仕方なくない」ことはあります。

――「殺し合い」なんて、
同じ種で「共喰い」しているのと同じ事なわけだから、
そんな歪んだことをやっていれば、
「狂気」もまたすぐ歪んだ挙句、
すぐにただの「蛮行」にだって墜ちるだろう。
――そもそも歪んだ場所に、それでも自分自身を存在させないといけない
そんな「矛盾」に直面したなら、
自分自身のほうを今度は歪ませなくてはならなくもなるだろうから。


そんな繰り返される「蛮行」を知ると。

人間ほど「狂気」を発生させやすい生物は
ないのではないか?と思うが、
それは自分が同じく人間であるから
そう感じるだけであろうか。

何というか、信じられないような
「狂気の沙汰」も、多々見受けられる。

でも、――それでも極論を言うなら。

誰の中にも
狂気のその「萌芽」みたいなものなら、ある気もするのだ。
――もちろん、自分の中にも、である。

「狂気」にもいろいろある。

何だろう、
「爆発したい」「ぶっ壊してやりたい」みたいな、
そんな衝動にもいろいろある、という感じだろうか。

――「狂気」とは、心の、
「外部からの防衛機能の一つ」なのか、
それとも、
狂気と言いながらむしろ
「精神の均衡をその内側で保つためのもの」なのか。
あるいは、
これまでに目の当たりにしてきた「破壊行動」について、
連鎖反応をただ起こしているだけなのか。

――正直、何だかさっぱり解らない。
(簡単に理解出来たらそれは「狂気」ではないしね。)

しかし、解らないなりに。

時々は、誰もが、その日常の中で適度に
「爆発」や「破壊」をしたほうがいいのかもしれない、とは思う。

いや、
「清々しい」「美しい」「人(自分も含む)は傷つけない」
そんな「破壊」「爆発」だってあるはずだ。

他人の心の中はわからないから、
「自分なりに」、考えるしかない。
自分の胸に、手をあてて、考えるしかないのだ。