見出し画像

「孤独」と「自由」は…

今回は昨日の記事↓の書き足しです。


『自由と孤独はセットになってる』

とは、ユーミンの曲の歌詞の一節であるが、
実に言い得て妙であるなあ、としみじみ思う。

「孤独耐性が強い」などと
自分のことをしょっちゅう言っている私であるが、
(昨日の記事でも言ってましたが、笑)
かといって「孤独大好きっ!」という感じでもなく、
(「大好きっ!」などと浮かれて言い切れる時点で、
それは「一人」であっても「孤独」ではない、
ということになるのではないかな?笑)
よくよく考えてみると
「自由」をこの上なく異様に愛しているだけなのかも?とも思うのだ。

もし、先述のユーミンの歌詞の通り、
「自由と孤独はセットになっている」のであれば。

よくよく考えると、私は、
自由が欲しくて欲しくてたまらなくて、
甘んじて「おまけでついてきてしまう孤独」を
受け入れているだけなのかもしれない。

「自由」とは、「浮遊すること」である。
(いきなり何なのだ?!)

何かに意識を、囚われていたくないのだ、
掴まれていたり、縛られていたりもしたくないのだ。
ふわ~っと漂わせていたいのだ、常に。

(希望としては。)
(なかなか希望通りには案外いきませんけどね。笑)

ふわ~っと視点を漂わせていないと
目にとまらぬ風景であるとか、
ほや~っと観点をさ迷わせていないと
思い浮かばぬ言葉であるとかが、
確実にある。
――気づかなければすぐに消えてしまうそれらこそが、
即ち、「私自身」なのだ。
(何なの?この極論。笑)
(いつも通り※個人の感覚です。)
(何言ってんだかわかりませんよね?!?!皆様。)

「一人」でいないと、
意識は漂ったりさ迷ったりできない。

――つまり、誰かが意識の中にいると、
おちおち「ぼ~っ」ともしていられない。
「ぼ~っ」に、「集中」できない。

あるいは、
「人間関係というもの」のその「渦中」にはいたくない、
というのもあるのかもしれない。


そこから距離をとり少し離れて見ていないと、
つまり、むしろ逆に近づきすぎると、
人の心の機微が、
鈍い私には見えなくなったりもするのだ。

――人の心のその子細な揺れのようなものこそ、
人というものの、面白みそのものではないか。
と、いうか。
それを何も面白がれなくなった時、
それはやはり、自分にとって軽めの恐怖になってしまう気もするし。
(自分のそれも。他人のものなら尚更。)

思い起こすに、幼い頃は今とは比較にならぬほど、
極度の人見知りな自分であったから、
その「孤独」からくる「自由」な「浮遊」状態が、
私という人間のすっかり「デフォルト」になっているのだと思う。

――「三つ子の魂百まで」というやつだろうか。(笑)

「孤独」を「初期設定」にしてしまっている自分であるからして。

それならそれで、人と比べずに、人の目を気にせずに、
「一人旅」をこれからも続けていこうと思う。