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まだ頑張る?もう頑張れない?-「根性論」は抜きにして-
「がんばってもどうにもならないこと」は存在する。
が、しかし。
反面、「がんばらないとどうにもできないこと」も存在する。
「がんばったからこそどうにかできたこと」も存在する。
――さて。
本日は「どこまでがんばるか」問題を考えようと思う。
私はこの答のカギは、「充実感」にあると思っている。
その「充実感」は、「がんばった結果」ではなく、「がんばっているその過程」についての、「充実感」である。
どんなにか苦しくても、ギリギリと歯を食いしばっても、そこにある種の「充実感」(この「充実感」は、わかりやすいものだけとも限らないけど、)さえあれば、その結果はどうあれ、それをやる「意味」もそこに生じると思う。
――つまり、極論だが、「出るかわからない結果」で計るのではなくて、「結果がどうでも、それ試みたいのか試みたくないのか」で計る、ということである。
(結果の「点」より、経過の「線」のほうが大切だ、という、以前の話にこれは通じるところである。)
「充実感」とは、「前向き」の気持ちである。
「後ろ向き」つまり「逃げ腰の充実感」は、私の知る限りでは、あまり存在しない。
――まあ、風向きによって前を向いたり後ろを向いたりと、風見鶏のようにクルクルクルクル回る、それもまた「人の気持ち」というものではあるけれど。
しかし、「完全に後ろ向きで止まったまま」の状態になったら、もうそれは、少なくとも「前向き」要素は皆無である。
うむ。
今回の答は、案外、簡単なものだったのかもしれない。
「がんばりたいと自分で思えるうち」は、がんばってみる。
「がんばりたくない」に転じた、あるいは「もうがんばれない」と感じたら、止まってみる。休んでみる。
それでしばらく様子をみて、場合によっては、引き返してみる。
ただただ、それだけのことなのかもしれない。
と、シンプルにまとめてはみたが。
いや、そもそも悩むのは、私自身、「弱気」や「怠惰」が満載の人間だからで。――「結果がでなかったらバカみたいじゃない?」とか「疲れたから休みたいなあ」とかすぐ出てきやすいタイプであり。(笑)
で、そんな気持ちが、「本心」の邪魔をして、そこを捉えにくくしがちなのだと思うのだ。
自分の本心は?
――本当のところ、どうなの??
「まだがんばりたい」なのか。
「もうがんばりたくない」「もうがんばれない」なのか。
――もうこれは、自分の「聞こえにくい心の声」にまで、ちゃんと耳を澄まして拾い上げていくしかない。
(案外、自分の心の声ほど、何故か聞こえにくい時があるものなのだ。――他人の声は、嫌ってほど聞こえたりするのに。)
自らを「ゆるめた時」に、自分の「本心」や「本音」は、聞こえやすくなる気もする。(経験則として。)
例えば。
「結果なんか、どっちにしたって、やってみないとわからんし、ならばどっちでもよくない?」
「疲れたら休めばいいし、休んで動けそうなら、また動けばいい」
と、そんなふうに。
――そうなのだ、だから、無闇やたらの「根性論」もまた、「自分の本心」を聞こえなくする「真犯人」という気もするかなあ??
(もっともらしく「根性論」を語る心の声というのは、自分のも他人のも、やけに大きいんですよね。)
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「大きい声にかき消されるもの」に、特に耳を澄ますことのできる自分でありたい。
――そんな2022年、年の暮れである。