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「底の抜けたコップ」の空しさ-「自分がなりたい自分」は自分で育てるしかない-
「自分がなりたい自分」は、
自分で育てるしかない。
親も、先生も、上司も。
「私ではない」のは、自明の理だから、である。
いろんな人から「教わること」は
たくさんある、
けれど、それでも、
「自分がこうなりたいという人間像」は
最後は、
自分で自分の頭の中に描くしかない。
――だって、なあ?
自分ではない「誰かの好み」に、
自分を勝手に不本意に変えられたら、
そんなイヤなことないわけじゃない?
だったら、
「自分以外、自分を変えられない」ほうが
よくない?
「自分を変える」なんて、
他の誰もやってはくれないし。
同時に、
他の誰かが、
それをやってもいけないのだ。
「自分を変える」なんてことについては、
そんなの
「誰にも最後は助けてもらえない」設定でいいのだと思う。
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そもそも。
世の中にこれだけ
様々な人がいるということは、
人の数だけ
「なりたい自分」があるということだろう。
そんなのは、それぞれ違って当然なわけだ。
あるいは。
「こういう人間でありたい」という
その部分の意識が抜け落ちている、
そんな人もまた
いるのかもしれないし。
――たとえば。
「醜い人間でありたい」と、
自ら願う人って、いるのかなあ??と。
「人には常に暴力的に接し、その力の恐怖により、完全に誰をも服従させる自分でありたい」
「人を平然といくらでも欺いて、とにかく嘘でも何でもいいから、自分の思い通りに都合よく現実を書き換える自分でありたい」
「人から奪えるものは、何でもどこまでもどんな手を使ってでも奪い続け、私利私欲を満たしていく自分でありたい」
――まあ、こういう人って
実在はしているわけだけれど。
「こういう自分になりたい」と思って
この人たちは
こんなふうになっちゃっているのだろうか??
……なんてことは、
素朴な疑問として思ったりはする。
と、同時に。
「こういう自分でありたい」
あるいは
「こういう人間にだけはならない」
という、
そういう「信念」がまったくない人生は、
いくら権力を得ても、
いくら知名度を上げても、
いくら富を集めても、
なんというか、
「底の抜けたコップ」のように、
どこまでも空しい人生という気がする。
(これは「私はそう思う」というだけのことだが。
――まあ、他人様のことは、
この場合、どうでもいいので。笑)
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話を戻して。
「こうなりたい」とイメージできたなら、
自分なりに、自分で、
自分を変えていこう(と、してみよう)。
で。
少しでも変われたら、
それだけでずいぶん、
生きることが面白くなると思うし。
――いや、それ以上に。
「なりたい自分に変えようと試す」
(別にすぐにそれでパッと変わるわけではなくても)
その「試み」こそが、
実は「人間として生きる」
その面白みなのかもしれないし。
「どこまでなりたい自分に
自分を近づけられるか」
そういうことを「試してみよう」という、
その気持ちを持つだけでもいいと思う。
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