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不満を爆発させてしまうその「余力」を

ガルルル~って「その不満」が湧くのは、もしかすると
まだまだ元気で余裕があるという証だとも言えるのかもしれない。

食住の不足とか、
身の危険とか、
死ぬかもしれない病気を患っている時とか、
そういうことが差し迫っている場合にも「その不満」は湧くだろうか?
と考えてみる。

そのうちのいくつかは、
 「最低限」が満たされているからこそ湧く不満もあると思う。

で、「不満」と「不機嫌」を、
セットにしなければ、 なお快適なんだろうけど、と思うのである。

例えば、期待しすぎるから、 「不機嫌」になるのかもしれない。

(追記:私はとにもかくにも「不機嫌」には、なるべくなりたくない主義なのである。)

「不機嫌」を避けるためなら、
「どうせ世の中こんなもんだ」って斜に構えて
冷笑的な皮肉屋になるのも、実は悪くないのかもしれない。

そもそも「憤る」も「不機嫌」も 「余力」がないとできない。

「いや、いっぱいいっぱいだから憤っているんじゃん!」
って声も聞こえてきそうだが、
本当に精神が、それ以上の、例えば「瀕死状態」になると、
もう「不機嫌」も「憤る」もほんのささやかな「抵抗」すらも、できなくなるものだ。

つまり、ここで言いたいのは、
「まだ残っているそのエネルギー、 温存して有効活用しなきゃ!」
ということなのである。
――これは「不満が湧く」そのこと自体を否定しているのではないということ。

「不機嫌」って、それ自体が、
自分ももちろんだし、
加えて周囲の他人の(下手すれば味方の)力も削いでしまうような、
つくづくマイナスのエネルギーだなあ、と思う。

だから、例えば、「不満が怒りに変換される」は別にいいんだけど、
機嫌よく怒る感じにできないだろうか?と。
(伝わりにくいかな?言い替えると)「感情的にならない怒り」っていえばいいのか。
難しいけど、でも、そういうことって、心がけ次第でできる、あるいはそういうふうな方向に引っ張っていけるのではないかな。


とにかく、エネルギーの「有効活用」をしたいのである。

自分の、時間もそうだけど、 エネルギーにも限りがあるなーと、
最近頓に感じるようになってきたのだ。

……若い頃はもしかすると、 どんなに不機嫌になっても、手持ちのエネルギーだけだとしてもそれでもお釣りがくる、みたいなところもあったかもしれないですけどね。(笑)

まとめると。

「不満」は改善の種だとも思うから、 バンバン上げても構わん。
が、それはまだ余力があるからできているのであることを知る。
その「余力」にも限りがあるから、
それを無駄に消費しないように、大切に使うイメージで。
そのために、いつでも機嫌よく。

……難しいことだが、きっとできなくはない、はず!!

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