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時の流れのせつなさに
(他人様に対しては、そういうのを感じることはまずないのだけれど、)老いていく、親や、あるいは自分自身を感じるにつけ。
「とめどなく流れて」「確実に終わりが来る」、生物にとっての「時」というものは、なんとせつないものなのだろう、と、思えてくる。
その「時の流れ」の上にしか、一様に生命体は、「生きる」ということができないのだ。
――「生きながら時を止める」ことも、「生きながら時を無限に進める」ことも、絶対にできない。
そうか。
「生きる」とは即ち、いつでもその「せつなさ」と、隣り合わせにあることなのか。
(というそのことを、これまではあんまり自分では気にもとめずに来たけれど。)
しかし。
「生きる」について、この「せつなさ」なくしては、それはそれは無味乾燥な「ただの生命活動とその作業」のようにもまた思えてしまう。(思うようになった。)
(「ただの生命活動?いや、それでいいじゃないか」という考え方もまたアリだとも思うけれど。)
たとえば、「切に生きる」って、たぶん、このせつなさと共に生きることなのだろう。
この生命を、自らの懐に、ぎゅっと握りしめる。
――この「切実さ」こそが、「生きる」ということなのだ。
(少なくとも、今の私にとっては。)