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「思い通りにならない」にも効用がある?
欲するものが、欲した途端、欲するままに、片っ端から何もせずすべて手に入っていったら?
――たぶん、それらのものの価値が、 (少なくとも自分の中では、) どんどん下がってしまいそう。(それもまたおかしな話なんだけれどもね。)
そして、 本来、値踏みできないようなものまでも、 まるで物価のように、その価値が自分の中で「下落」してしまいそうな気がする。
結局。
欲していたものの本当の価値とか、欲していたその時の気持ちの強さとかを、 理解できなくなったり、 忘れていったりしてしまうのであれば。
――「何かを欲することの意味」そのものも、 消え失せてしまう気がするのである。
「望む」「願う」「祈る」ということには、そこに「ある重さ」があり、「その重さ」がなくなったら、どうなるのだろう??と考えてみる。
――「望み」にも「願い」にも「祈り」にも、「薄紙一枚分程度の重さ」しか感じられなくなった時、「生きることとは?」と問うても、もしかすると、私は答えに窮してしまうかもしれない。
本気で、切実に、望み、願い、祈ることが、即ち「生きる手応え」というところもあるように、私には思えるのである。
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(と、言いつつ。
欲するものが、欲した途端、欲するままに、片っ端から何もせずすべて私の手に入っていってほしい。
――この世の全てが、自分の思い通りになって欲しいです。笑)
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