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「ニセモノ世界」と風通し

昨日の記事↓の、続きというか書き足しです。

――謙虚さを失うと、つまり、世界はその分、狭くなっていくのである。

昨日の記事の締めの文です。

ここからもう少しだけ続けてみたいと思うが。

「自分の感じているものが絶対」っていうのは、はっきりいって「ラク」だし「安心」なのである。
何故なら、「自分にはよくわからない感覚」というのは、不安をもたらすものでもあるから、である。

だからそのように「自分の感覚だけ信じろ」というのは、不安になりやすい人には良い側面もあるのかもしれない。

しかし、私個人としては。

「世界を狭めて心の安定」よりも、「世界がとてつもなく広く感じられて心不安定」のほうが好きなのである。――その個人的な好き嫌いは、そのうち逆転してしまうかもしれないし、それならば尚更今は「より広い世界がもたらす心もとなさ」を、受け入れ感じられる自分でありたい気もする。

そして。
「世界が小さい」人や「視野が狭い」人というのは、だいたい話していて、つまらないと感じられてしまうことが、私は多い。(※個人の感想ですし、そもそも私も人のことは言えませんけどね!笑)

そういう人ってだいたい、「変な」負けん気がある。――いや、「負けん気」そのものはけして悪いものではないのだけど。
それって、「負けん気」が問題なのではなく、 「謙虚さがない」のが問題なのだなあ、と。
あとは 「負けを認められない」意固地さとか、 「どんな手を使ってでも負けたくない」という卑しさとか、 そういうのが問題なのかも。
――そういうのが、せっかくの「負けん気」を、「変」にしてしまうのだろうなあ。(うーむ、人のフリ見て我がフリますます見直します。笑)


ここで述べている「世界が狭くなる」ということは、「ある部分は見えない」し、「ある角度は隠れている」ということでもある。

無論、どうしたって「世界のすべて」は、一個人の目に見えるものではない。それは承知している。
むしろ、「私はすべて見えている」と思っていたら、思った途端それは「ニセモノ世界」である。

私は、「ニセモノ世界」の中には、なるべくならいたくないのだよなあ、ということでもある。


あと、謙虚さとは、「風に晒されること」でもある。――時々寒かったり、暑かったりもするであろう。
だからこれも「どっちが良い」「こっちのほうが正しい」とはあえて述べない。「個人の好みの問題」として話を進める。
閉め切った部屋で、冷暖房バッチリ完備にして、過ごすのだって、悪くはないはずである。――私だって猛暑や酷寒の時には部屋閉め切りますもん!(笑)

しかし私は、基本的には「風通しがよい」ほうが好きなのである。

「私の世界こそが絶対だ」と「締め切って」しまうと、本来流れているはずの空気が、そこには流れないことになるわけである。

流れを失うと、大概、空気は澱み始める。
「それでもその世界に籠っていたいのだ」という人を私は否定はしないが、自分はやはり、外の空気が吸いたくもなるし、あるいは「外の空気をそういえば吸っていないな」と感じられる自分でありたいとも常に思っている。