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人生の「主人公」を描く手腕を試されている

♪自分の人生の中では 誰もがみな主人公

さだまさし「主人公」

この、さだまさしさんの曲の歌詞の中では、それをきっと「肯定的なこと」として、書いているわけです。

世の中全体の中では「脇役」でも、各々の人生という各々の物語の中では、自分が主人公として生きていっていいのだよ、ということですよね、きっと。

――うーん。
でもねえ。

もし、誰かが書いたシナリオの中の「脇役」として生きるのでも、それが「素敵なシナリオ」ならば、そっちのほうがいいかも?
(たぶん、そっちのほうが「ラク」だから。)

な~んて、甘いことも、私は少し思ってしまいますが。(笑)


いやいや、しかしです。

そういう「自分ではない誰かの手による素敵シナリオ」というのも、確かにあり得ない話ではないけれど。
でも、「他人様の書いた作品」に「乗っかって」、その上「自分が望む自分でいる」ってのは、やはりなかなか「稀なケース」というか、そもそも難しい側面はあるでしょうね。

つまり、「この人(あるいは人々)の期待に応え続けたい、それが私の人生だから」というのも、ある種の幸せだと思うけれど。
――本当にそれで、その人はずっと、満足し続けられるのかなあ? なんて、私の場合はちょっと感じてしまう。

つまりは。

少なくとも、今のところの私自身には、「自分の期待より、この人の期待を尊重して生きていきたい」と思える人はいないし。
そもそもが、誰と出会おうとも、自分はそういう感じでは生きられない気がするなあ……。


と、なると。

「私の人生」を描く、その筆は、誰かに預けてしまうわけには、やはりいかないのだろうなあ……。



(前にもそのことについてはここで書いたので、詳細は省きますが、)私は、私の日々について、「自分で選択している」という実感が、どうしても欲しい人間なんですよね。

たとえば。
「人からやらされる」のだとしても、「そのこと自体」を自分で選んではいる、という実感は、常に携えていたいんです。

言うなれば、「自分の人生の行動すべてに、自分で選んでいるという実感と責任を持ちたい」ということです。

――これがどうも、私の場合、生きるにあたっての「必須条件」なんです。


と、なると。

聞こえの良い言い方をしてしまえば、やはり、「自分の人生の主人公は自分」であり。
且つ「そのシナリオは、自分で書く(書かざるを得ない)」ということなのだと思います。


……とはいっても、です。

人生のシナリオについて、「自分が書くことが許されている部分」って、実は案外少ない。

たとえば。
生きる時代も、生まれる国も家も、あとは、生まれもって得ている能力とかのそういった遺伝的なものも、自分で選べるわけでもなく。

あるいは。
生きてからのその後、出くわす「難」も「不運」も「理不尽なこと」も、呼んでもないのに向こうから勝手に流れ着いてきて、私の舟に(場合によっては激しく)ぶつかってもくるし。

つまり「生まれる前から来ていたもの」とか、その後に「自分の外側からやって来るもの」とかについては、はっきりいって「来る・来ない」を、自分ではなかなか選べない。


但し。

それ以外の、「一番肝要な部分」それについては。

まるっきりこれ、自分に託されているわけです。

「自分でそこをどう書くのか」という、――生きるとは、その手腕が試されていることだとも言えると思う。

「一番肝要な部分」
それは何かといえば。

――「自分の内面」でありましょう。


「精神」「心」「心得」「気の持ちよう」――どれも、「自分で書いていい」、というかこれもまた「最後は自分で書かざるを得ない」部分であり。


あるいは、やはりそれこそが、現世で生きている人間一人一人に与えられている、ある種の「聖域」なのだとも私は思うんです。

――そもそもが、他人が勝手にそこを書いては(つまり外部から、人の内面に手を突っ込んで「コントロール」しようとしては)いけない部分だとも思うし。

そして、他人様の内面を、外から自分の思うように「コントロール」したがるそんな輩(ちょくちょく出くわしますね)が、そもそも私は大嫌いなのだとも思います。(笑)



先述した、生まれる前とか、あとは外からとかからやって来る、「どうしようもないこと」「仕方のないこと」というのは、言うなれば「処理」をするために――そして、それによって自分自身のその「処理技術・能力」を向上させるために、わざわざやってくるのだ。

と、自分の人生のシナリオを、自分で書いてしまおうかとも、私は思っています。(笑)


つまり、自分のもとへとやってくる「負」と感じられる要素はすべて、「自分自身の内面の力」に、「変換」させていけばいいのだよな?と。
――そのために「負」はやってくる、と、何ならもう、そのように思いこんでしまおうかな?と。(笑)


そして、できるだけ、その「人間性」の部分では、「えー、自分の人生の物語に、こんな主人公、自分は望まないけどなあ」と、ならないように、自分自身を「自分で描く」ようにしたい。


人生とは、「自分という人間をどう描いていくのか」という、「自らに託された物語」ということで、やはり、いいのかもしれない。

さだまさしさんが詞に書かれたように、『自分の人生の中では、誰もがみな主人公』ということで、
――そう、それはもう「責任もって」自分でなんとか「良い物語」を、書いていくということでいい、というか、それしかないのでしょう。



さてさて。

私はこの先、「どんな主人公(自分)」を、描いていこう??

ま、「あなたの物語の主人公なのだから、あなたの自由に書いていいですよ?」と言われているわけだから。

私にとって、こんなに「よっしゃー!」なことはないはずなので。(笑)