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アナタのカゼはどこから?ワタシの邪気はどこから?

「無神経な人」を、別にうらやましいとは思わないじゃないですか。


たしかに、気づいちゃうことも考えちゃうことも感じちゃうことも、ある意味では「苦しみ」の元だけど、でも、な~んにも気づかず感じず考えもしないような人に、別に自分はなりたくはないわけじゃないですか。


「苦しみ」は「心の負担」?

大いに結構!

そういう「負荷」を多少はかけないと、多分、心の衰えは早いだろうし、そして賢くもなれないし。
(自分ももう少しくらいは賢くならないと、結局、生きづらいんだよねぇぇッ!!笑)


但し。

その上で、「邪気なく」(というのが難しそうなら「邪気少な目」でも)生きていけたら、理想的なのだがなあ。



ところで、邪気って、いつごろから芽生えてくるものなのだろう??

主に他者に対して湧いてくるような、どす黒いあの気持ち――意地悪な気持ち、見下したい気持ち、邪魔したい気持ち、ズルして人より得したい気持ち、妬む気持ち――どう考えても、どっからどう見ても、正しくない、みっともない、卑しくも汚い(場合によってはその自覚もちゃんとそこにある)、そんな気持ちの数々のことである。

いつも割とここの記事では、我ながらエラそ~なことを書いている(と、読み返して感じてます。笑)けど、でもそんな私の中に、「どうしようもなく」そういった「邪気」が、そう、この歳になってまで、いまだにどこかに存在しており。
(で、エラそうなことをここでいくら書いても書いても書いても、その「邪気」の類いを、完全に消すことは一向にできません。……どうなってんだ、おい!笑)


「邪気」――自分の場合、今現在よりはるかに軽めのものなら、既に幼少期からあったような。(早いな!笑)

でも、赤ん坊の頃から既にあったとは思えないんだよなあ。

それがいつの間にか……。
風邪のウイルスのように、他者から感染してきて「自分のもの」にもしてしまったのか?
――他者の「黒い気持ち」を、いつかどこかでもらってしまったのか?
(すぐ他人のせいにしたがる。笑)


まあ、しかし、「現世」を生きていく上で、「無菌・無ウイルス状態」で一生涯ずーっといくことは不可能なわけで。
「黒い気持ちウイルス」というのは、どんなに除去しようとも、この現世の空気中に「一切ナシ」という状態には、どうやらできないようなのだから。

だから、「生まれた時には感染していなかったのに、他者からいつかうつされた」のだとしても、でも、現世で生きていくと決めた以上、そんなふうに「他者の誰かのせい」にし続けていても仕方ない。
(そういうのも含めて「恨みつらみ」の類い全般は、油性マジックで書いた名前のように、簡単には消え切らないようになっているようなので、少なくとも消したいものをわざわざ自ら繰り返し上から「なぞり書き」は、できるならしないことだ。笑)


だって。

何らかの「ウイルス」が入ってきて、で、それが自分の心や生活の健康を脅かし蝕むんだったら、自分でなんとかそれを「体外排出」あるいは「体内から薄める」ことをせねばならんのでしょう?

――それができるように、この場合なら「心」のほうの体力・免疫力を、自分で鍛えねばならんのでしょう??

で、ワレ!そろそろ、ちゃんと鍛えねば!
そうしないことには沼沼した(ヌマヌマした?)日々が、「清々しく明るく気持ちよく爽やかに」なかなかならないことに、気づき始めているのでしょう???

――「沼」のその「泥」の中で、「窒息しそう」なのは、おまえ自身なんだろう?????
「明るい毎日」にしたいのは、おまえ自身の毎日のことなんだろう???????


あるいは。

自分が丈夫になってきたから、自分自身のこれまで気づかなかった「邪気」に、「ようやく、今になって」気づけるようになった、ということはあるのかもしれない。



自分を毒するものでも、「共依存」みたいになっていることって、あるんだろうなあ。

自分を蝕んでいるものなのに、それがないと生きていけない。
「邪気」は私に寄生し、私は「邪気」に寄生し、と。
そんなふうに寄りかかりあい、何故か「支え合っている」構造になっているという。

――でも、ようやくその「毒」を「追い払う」体力がついたのなら、ここからだよな。

「その場しのぎ」の繰り返しではなく、結局のところ長い目で見ると邪気は邪気を呼ぶだけだから、それは追い払わない限り、気持ちの根底にある、虚しさとか僻みとか寂しさとかが、膨らんでいくことになるだけんだよなあ、きっと。
(と、いうことには、ようやく最近になって気づけるようになってまいりました。……ずいぶん長くかかったな。笑)




話が元に戻っちゃうけど。

幼少の頃も、私の場合は邪気は少し既にあったし。(笑)
あと、幼心にもかなりストレスなこと――例えば学校って、どうしても、苦手なこととか平気でやらされるし、で、それができないと(直接的、あるいは間接的に)「何故できないんだ?」と責められるし、おまけにそのせいで本来要らないはずの妙なコンプレックスまで植え付けられるし、散々なシステムだったよね??(今現在はちょっとは変わったのかな? でも、少なくとも私の子供の頃は、そんな感じの場所でした)――といった、そんな「邪気の種」や「苛立ちのもと」になりそうなものも(学校以外にも)日常的に、結構たくさんあった気がするけど。

でも、基本的に幼少期には、(自分の場合は、だけど)今よりかはまあまあ「明るい精神」で、まあまああっけらかんと過ごせていた気がする。

そう、確かに「それって当時はモノを考えていなかったからでしょ?」と言われれば、たぶんその通りなんだけど。(笑)

いや、それでも「自分のキャパシティいっぱい」の水位までは、当時の自分なりには(つまり子供は子供なりに)いろいろ考えていたとは思う。
……のだけど、でもその水位を「越えてでも考えるその必要はない」ということを、「自然と」子供の頃まではわかっていた気もするんだよなあ――たぶん、「身体感覚」に近い勘みたいなもので。

そう、「自然と」というこの感覚。

「水位を越えたら不快」
→「不快ならやらない、そんなの我慢できない」
というふうに。

これが大人になるにつれて「不自然と」になってくるんだよなあ。
不自然でも、理屈や小手先の計算のほうを優先してしまうんだよなあ。
(繰り返しますが、あくまで「自分の場合の話」に、とりわけ今回は終始していますが!)




邪気って、概して「重い」のだよな。

で、ほうっておくと、その「重さ」は増していくんだよな。

だから実は、それもまた、背負い続けていると、結構な消耗になっているんじゃないかと思う。
(と、これもまた最近になってようやく気づく。)


で、自分の中にある邪気の、その良し悪しは一回置いておいても、そういうのがあると、つい、力み「過ぎ」ちゃうし、考え「過ぎ」ちゃうんだよなあ。
(そうすると「理屈抜きで、重いからとりあえずパッと手離す」という行動ができなくなる。)

適度に力んだり考えたりは、衰えないために必要。

だけど「過ぎたるは及ばざるが如し」なのでしょうな、ここらへんも。


「感覚」よりも、小手先の「思考」や「理屈」のほうを優先すると、
「水位?不快?後先考えず今の気分だけで何言ってんの?今はそんなことよりこっちが大事!多少は我慢しろ!」となってしまうということだ。


そして、邪気には他者の存在が不可欠だけど、邪気をもって接するとどこかで「争い」モードが入って、不自然な「自分以上の速度や馬力」をどうも出そうとまたしてしまうんだよなあ。

――「無茶」は、なんとかなる時も確かにあるけれど、でも結果的に「毎回なんとかなる」とはならないじゃないですか?
(毎回なんとかなるんだったら、それは無茶じゃないし、無茶だと感じなくなっていくものだもんな、そもそも。)


そして、ゴールがもし仮にあったとしても、参加した覚えがなければ、それはレースではないから、急ぐ必要性はない。

いや、「レースに参加しているのだ!これは競争なのだ!」と感じているのだとしても、不自然に「自分の実力以上のものを出そう」と毎度毎度目論むのは、ゴール前に故障を招く原因にだってなる。


「あなたの邪気は、どこから?」
と、問われたら。

「ワタシは、私から。」
と、潔く答えたい。


自分の頭の中を掃き清めるのは、自分しかやっちゃいけない作業なのだ。

――他者のせいにばっかりしていては(それが元はどこから来たものだとしても)、いつまでも「自分の邪気」は、払えないのだ。


「邪気」は、「よそ見」の元凶だ。

何故なら(繰り返しになるが)「邪気」には他者の存在が不可欠で、どうもそちらばかり注視してしまうからだ。

生きていく、自分が生かしていくのは「自分自身」のはずなのに、目線と体勢がどうも「他者向き」になるんだよな。

冒頭で挙げ連ねた「意地悪な気持ち、見下したい気持ち、邪魔したい気持ち、ズルして人より得したい気持ち、妬む気持ち」って、目線が他者にばっか向いているんだよな。


――自分の人生への集中が、もっと私には必要なようだ。

「そんなことにかまってられるか!」
って言えるくらい、
「自分はどう生きるの?生きたいの?」
に、集中しないとな。

それが最も手っ取り早い「私の邪気払い方法」のような気がする。


自分がつかめるものは、自分の人生・自分の世界で認知しているものの中にしか、結局はないのである。(カタチないものは特に。)

他者に対して、恨んだり妬んだり意地悪したり邪魔したり見下したりズルしたりして、何かしらを手にしたとしても、その中身は、「自分の世界」に於いては「空っぽ」なのだと思う。

――そして、もしか一時的には、「胸のすく想い」をしたとしても「腹の虫がおさまった」としても、そこには「自分の人生において、振り返るたび繰り返し心を温めてくれる永続的なもの」は、何も生まれないのだ。
(むしろ早く捨てたほうがいいくらいのものだ、それらは。)

そんな「虚しさ」と、「邪気」は、相性がかなりいいみたいに思う。


だからこそ、何ものとも比べない。
「自分自身の」人生、そこで今、自分がするべきことだけに、私は目線をそろそろ戻していこうと思う。

――なかなかどうして、自分にとってかなり高難度なことだとは、我ながら思うのだけど、
でも反面、
それは
きっと、かなり「心の底から楽しいこと」だからである。