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生まれてこの方ずっと「生きている」ものだから

「死にかけた」経験が、私にはない。

命にかかわるような病や怪我も、
暴漢に襲われたことも、
山で遭難したこともない。
溺れたことすらない。
(あ!唯一、
食べ物が喉に詰まったことはあった。
――いや、ホントに
あの時は死ぬかと思った。笑)

(その「食い意地臨死体験」を除けば、)
これまで「そういう目」に遭わずに来たという
それだけで、
よくよく考えてみれば相当に
「ありがたい」ことなのだが、
何だか「そういう目」に遭わないかぎりは
ありがたみにすら気づけないなんて、
つくづく生物として
ますます「鈍い」なあ、と、
自分でも思う。


と、いうわけで、
心身ともに、それはそれは
「鈍い」私ではあるのだが。

意識に比べると、まだ身体のほうが、
幾分はしっかりしているというか、
多分、振り返るとこれまでに何度かは、
意識のほうで気づく前に
(あるいは気づかぬうちに)
身体が、私の命の危機を、
未然に回避し防いでくれたことも
あったのではないかと思う。

但し。
その身体や、もちろん意識の声よりも、
その時の「事情」「状況」のその声が
たまたまデカいなんてこともありまして。(笑)

この間、
年甲斐もなく久しぶりにふと全速力で走って、
「心臓が止まる!」かと思ったことがあった。

「……く、苦しい。
これはヤバイヤバイ、
これまでにこんなのない!
本当に苦しい!
息切れ以上に息切れしている!」
みたいな感じだったのだ。
――まあ、30秒もしないうちに
収まりましたけど。(笑)
久しぶりだったもので、
うっかり若い頃のようなつもりで
走ってしまったせいだ。
(あと増えた体重のことも忘れていた。)

――と、今のは偶々
「先にちゃんと聴きとれず
危機回避できなかった」例であるが。

しかし、
歳をとると、これまで以上に、
身体が正直になるのか、
それとも
身体の声を自意識が
よく聴きとれるようになるのか、
――いやいや、単に
身体が我慢しなくなるのか
(←この説が一番有力。笑)、
「所詮、自分もただの生命体だなあ」
と思うこともまた多くなる。


「衰えていく」のだ。
こうしていつかは、
「生物としての活動が止まる」のだ。
そんな「遠い予感」を感じることも増えた。

その反面、
生まれてこの方、ずっと
「自分自身は生きている」ものだから、
自分について「生きている」この状態を、
いつかずいぶん当たり前に
思うようになってしまったようでもまたある。

――絶え間なく「生きている」と
「生きている」ことを基本
忘れてしまうんだよなあ、と。

でも、
「生きてはいない」状態になってから
しみじみ思い出そうとも、
それはあんまり意味がなさそうだし、
――というか、
その時には理屈上は
「思い出せる状態じゃない」
と考えるほうが自然なのか。(笑)

「心臓が止まらない程度に」
たまに、
「生きている生物としての実感」を
思い出せるようにしておきたいと思う。