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「扱いづらいが鋭く尖ったもの」

「器用」になって、とりこぼしたものがある気がする。


鳥居みゆきさんって、自分、昔から何か好きなんだけど、
この文春のインタビュー記事がまたよかった。

一部抜粋↓

鳥居 子供の頃めちゃくちゃ好き嫌いがあったんですけど、大人になったら「この苦さがいいんだよ」と食べられるようになって、味覚が鋭くなったんだと思ってたんですね。
 でもそれ、進化じゃなくて退化なんじゃないか。味覚が鋭くなったわけじゃなく、むしろ子どもの頃の味覚の鋭さがなくなったからこそ、これが食えるようになってんだ、と思い始めた。
――なるほど。
鳥居 逆に鈍くなってるから、これも食える、あれも食えるになってる。

2022/6/6 文春オンライン


大人になるにつれて、自分の場合も、
「生きづらさ」は減ってきている、とは思う。
――それはそれで良いことなんだけれど。

「迎合上手」になる、つまり、
比較的何でも受け入れられるようになる、ということは、
確かにどこか「鈍く」なっていくことだなあ、というふうには思う。

「生きづらい」とか「受け入れづらい」とか
感じることが多かったあの頃。
――ちょっとしたことで、すぐ悲しかったし、
ちょっとしたことが、すぐ耐え難かったし、
ちょっとしたことも、すぐ気になってしかたなくなったし。

でもその
「生きづらさ」「受け入れがたさ」「柔軟性・適応性のなさ」にも
何かしらの「意味」や「機能」があったのかもしれない。

たとえば、
自分の内側の「尖った鋭いもの」
――「自分の感受性」みたいなものとか?
それらを、
自分なりに必死に守ろうと「防御」しようとしていた部分も
あったのかもしれないなあ、なんて、
ふと、この歳になって振り返ってみて感じてみたり。
(たぶん、これくらい時間が経過したから
こういうふうに気づけた部分も大いにあるのかも?)

これは即ち、
あの頃、自然と、何にも意識せずとも頑張らなくても
「感じられていたもの」について、
それを捨ててでも「生きやすさ」のほうを、
どこかの時点から自分は取ってしまった、
あるいはこれまでにだんだんと取るようになってしまった、
ということでもあるように思う。

で、今、それらを失くしてみて、
はじめて、
「あの頃の自分が持っていたもの、それを感じる能力」
(当時は「能力」とは思っていなかったもの)を
惜しんでいる自分がいるわけである。
――当時は「実はかけがえないもの」であるとは
当たり前すぎてまったく気づかなかったけど、
後になってようやく気づいた、ということなのである。

かと言って、
「生きづらい」には、あんまり戻したくはないけれど。
――今の自分も、これはこれなりに、
長い時間をかけて試行錯誤して手に入れた自分だから、
さすがにそれはね。(笑)

しかし、
これまでそうして取りこぼしてきた
「扱いづらいが鋭く尖ったもの」たちは、
少しずつ、ここから、
但し「今は今なりに」で、
また取り戻していきたい気もするなあ。

「少しずつ、少しだけ」なら、
それもまたできるかも?
な~んて気がしている今日この頃なのである。
(いつもより更に輪をかけて漠然とした話でスミマセン。)