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「扱いづらいが鋭く尖ったもの」
「器用」になって、とりこぼしたものがある気がする。
鳥居みゆきさんって、自分、昔から何か好きなんだけど、
この文春のインタビュー記事がまたよかった。
一部抜粋↓
鳥居 子供の頃めちゃくちゃ好き嫌いがあったんですけど、大人になったら「この苦さがいいんだよ」と食べられるようになって、味覚が鋭くなったんだと思ってたんですね。
でもそれ、進化じゃなくて退化なんじゃないか。味覚が鋭くなったわけじゃなく、むしろ子どもの頃の味覚の鋭さがなくなったからこそ、これが食えるようになってんだ、と思い始めた。
――なるほど。
鳥居 逆に鈍くなってるから、これも食える、あれも食えるになってる。
大人になるにつれて、自分の場合も、
「生きづらさ」は減ってきている、とは思う。
――それはそれで良いことなんだけれど。
「迎合上手」になる、つまり、
比較的何でも受け入れられるようになる、ということは、
確かにどこか「鈍く」なっていくことだなあ、というふうには思う。
「生きづらい」とか「受け入れづらい」とか
感じることが多かったあの頃。
――ちょっとしたことで、すぐ悲しかったし、
ちょっとしたことが、すぐ耐え難かったし、
ちょっとしたことも、すぐ気になってしかたなくなったし。
でもその
「生きづらさ」「受け入れがたさ」「柔軟性・適応性のなさ」にも
何かしらの「意味」や「機能」があったのかもしれない。
たとえば、
自分の内側の「尖った鋭いもの」
――「自分の感受性」みたいなものとか?
それらを、
自分なりに必死に守ろうと「防御」しようとしていた部分も
あったのかもしれないなあ、なんて、
ふと、この歳になって振り返ってみて感じてみたり。
(たぶん、これくらい時間が経過したから
こういうふうに気づけた部分も大いにあるのかも?)
これは即ち、
あの頃、自然と、何にも意識せずとも頑張らなくても
「感じられていたもの」について、
それを捨ててでも「生きやすさ」のほうを、
どこかの時点から自分は取ってしまった、
あるいはこれまでにだんだんと取るようになってしまった、
ということでもあるように思う。
で、今、それらを失くしてみて、
はじめて、
「あの頃の自分が持っていたもの、それを感じる能力」
(当時は「能力」とは思っていなかったもの)を
惜しんでいる自分がいるわけである。
――当時は「実はかけがえないもの」であるとは
当たり前すぎてまったく気づかなかったけど、
後になってようやく気づいた、ということなのである。
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かと言って、
「生きづらい」には、あんまり戻したくはないけれど。
――今の自分も、これはこれなりに、
長い時間をかけて試行錯誤して手に入れた自分だから、
さすがにそれはね。(笑)
しかし、
これまでそうして取りこぼしてきた
「扱いづらいが鋭く尖ったもの」たちは、
少しずつ、ここから、
但し「今は今なりに」で、
また取り戻していきたい気もするなあ。
「少しずつ、少しだけ」なら、
それもまたできるかも?
な~んて気がしている今日この頃なのである。
(いつもより更に輪をかけて漠然とした話でスミマセン。)