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期待しないで期待する…みたいな?
めちゃくちゃ頑張ることによって
手に入るものはもちろんあるが。
めちゃくちゃ頑張った「せい」で
手に入らなくなるものもある、と、ふと気づく。
血眼で追いかけると、
その自分の風圧でふわーっと逃げていく、
……みたいなものも実はあるよなあ、と。
例えるならそれは、
「狙いすぎ、計算しすぎで、面白くなくなっちゃう作品」とかに似ている。
(どのジャンルにもあるある。笑)
そもそもが、「期待」というものをするからいけないのだろうか。
いや、するにしても
「期待しないで期待する」みたいな感じにできればいいのかもしれない。
(できるか?そんなの。笑)
だって、「期待」通りに事が運ばなかった場合、
どこか「裏切られた」みたいな気持ちにもまたなるので、
(相手が人じゃない場合は尚更それはおかしいし、)
それは何だか清々しくないし、
またそういうふうになる可能性
――そういう「どす黒ずむ」予感をどこかはらんでしまう時点で、
この頃の自分はそれを苦手に感じるのかもしれない。
そう考えると、「期待」は一切せずに、
それでも頑張れる範囲が
「頑張り」の適正範囲なのかもな、ともまた個人的な感覚としては思う。
「叶わないかも、と、少しでも思ったら叶う確率が下がる!」
みたいな精神論は、
多分、自分には合わなくなってもきたのだろうな。
「ダメでもともと」精神のほうが、自分みたいな人間には、
かえってネガティブが入り込む隙が少なくていいのかもしれない、と。
(「ダメもと」でも全力は出したい、と思えば自分は出すし、それでも出せる「全力」が、「全力」というものの適正範囲、という気もする。)
(つまり人は時にこの「全力」を上回る「全力以上」というものを出せてしまったりするのであるが、それこそが「やり過ぎ」なんだと思う。)
(まあ、それでも自分がはっきり納得して、「やり過ぎたことが原因で結局うまく仕上がらなくなる可能性もある上に、おまけにその後に力尽きて自身が白い灰になってもかまわない」みたいに思っていて、――それも重々承知の覚悟のうえで、それでもここで言うところの「全力以上」を出したいと思ってやるなら、それはそれなりにある種の面白みが生まれるからいいのだと思うけど。)
(でもやっぱり、)
「後々どす黒く変質してしまうかもしれない期待」とか
「最後に真っ白な灰になってしまう精神論」とかよりも、
「ふわーっとした、空に浮かぶ雲のような希望」みたいなもののほうが、
心健やかで全天候対応型で、変幻自在で身軽で自由に流れていけるなら、
そっちのほうが自分みたいな人間にとっては
良い結果をもたらす気がしている。