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「妬み」のかわりに「憧れ」を抱こう
「妬む」と、
どうしてもその相手の
「批判」とか「粗さがし」とかを
したくなるものだが、
それらのポイントは、見つけても、
「吸収しよう」というふうにならない。
つまり
自分の「栄養」にはならない。
――自分に今、必要なのは
ただただ
「栄養」なのである。
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誰かを「妬む」精神って、
どこか
「引き摺り落とそう」
みたいな方向に向きがちだから。
――違う違う、
必要なのは、
「自分自身が
あそこまで上っていきたいな」
の、
「憧れ」の感情だ。
「妬み」は、
ぜーんぶ、
意識的に
「憧れ」に変換していこう。
(それができないなら、
そもそも妬まない、と。)
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そして。
「憧れ」を抱いても、
「比較」は決してしない。
「私」は「あの人」ではないからこそ、
「憧れ」を抱けるのだし、
それを「栄養」とし
「参考」「教材」とできるのだ。
そして。
それらを使って、
「自分」を
「違う自分」へと、
変えていけるのは、
――それが許されているのは、
「自分自身」だけだ。
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嫌でも、時間は、
「先へ」「未来へ」と
着実に進んでしまう。
それなら自分も
「進む」「伸びる」「上る」の
「成長する」方向へ行こう。
これは歳をとっても
関係ない。
(もちろん、身体的な部分は
なかなかもう「成長」はしないけど。)
(でも「成長」とは
「身体的部分」だけの話では
無論ないわけであるからして。)
そのためにも
「妬み」ではなく
「憧れ」を抱いて、
「自分自身の前方」に
視線を向けていこうと思う。
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「妬み」の窓や扉を開けても、
いい光や風は入ってこない。
むしろ
「どす黒いもの」が
自分の中から外へと放出され、
「よい人」や「よきこと」を
それで遠ざけていくだけだろうと思う。
それなら、
「憧れ」の窓や扉を開けて、
清々しい風や光を
自分の部屋に入れるほうが
絶対「得」であると
私は思うのである。
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