ちょっとTwitterについて考える

最近、インターネット上での誹謗中傷について、SNSで議論がなされている。

おそらく、そのきっかけは某「リアリティーショー」を標榜した番組の出演者が自殺したというニュースを受けてのことだ。
(ちなみに私はその番組を観たことがなく、出演されている方についても存じ上げないので、ここでは特に言及しない)

もちろん、今回大きく議論の俎上に上がるまでも、インターネットでのコミュニケーションというのは、ここ数十年、世界中での大きなテーマであった。

全世界の人が繋がれるということへの期待感や「開かれた世界」への希望から、プライバシーの管理・過激化する言論活動の問題点まで、色々な論点が目まぐるしく浮かび上がっては消えてきた。

加えて今日においては、物理的な移動そのものが難しくなっており、その上でコミュニケーションツールとしてのインターネットは今後も重要なテーマであり続けるのだと思う。

さて、その中でも今回はTwitterについて少し考えてみたい。
こういう、オンライン上のコミュニケーションの問題について、日本で一番言及されるのはTwitterだろう。

以前書いた記事で震災以前/以降のSNSの変化についても少し触れたが、やはりその時も即時性・手軽さなどの観点観点からTwitterがよく使われていた様に思うし、逆に「誤った情報」が流布したのもTwitterだった。

Twitterというのは、他のSNSに比べて、以下の3点で独自性を有しているように思う。

⑴アカウントの所有により、掲示板などに比べて「人格」が存在している
⑵従来のSNSに比べ、コミュニティなどの「場」が存在しない
⑶140字という文字数とハッシュタグ

もちろん、他のSNSやコミュニケーションツールにおいても存在する要素であるといえる。
なので、どちらかというと、この3つの要素の複合が、Twitterのコミュニケーション空間を独特たらしめているという印象である。

ちなみに、ここではいわゆる「鍵アカ」をあまり念頭に置いていない。

⑴アカウントの所有により、掲示板などに比べて「人格」が存在している

Twitterは短い文字数の多数の発言が流れていくことから、一見すると掲示板やチャットの様な画面が展開される。

しかし、掲示板などと異なっているのが、匿名/実名を問わず、固定の名前(アカウント名)を有し、ツイートやメディア(画像や動画等)、「いいね」が蓄積されていくことだ。これらの要素によって、ある瞬間になされた発言以外にもそのアカウントの「人格」が形成されていく。

ツイートを消去しない限りは時系列でツイートが蓄積されていくしに、フォロー/フォロワー数が可視化されているので、Twitter歴の長さや発言の頻度なども一目で分かる。

逆に言えば、それらの蓄積がほとんどなく、アイコンなども更新されておらず、特定の発言を繰り返すようなアカウントは「捨てアカ」とみなされることも多い。

他方、同じような発言をしても、アイコンに何らかの写真などが設定され、数千、数万のツイートしているアカウントであれば「生きているアカウント」の発言となる。すなわち、そこに人格が存在することとなる。

そのアカウントがたとえ複数人で運営していようと、また複数のアカウントのうちのひとつであっても、一つ一つのアカウントに人格を見出すことができる。

加えてこのときに興味深いのは、何についてよく言及しているかと同じくらい、どういった情報に「いいね」を押すのか、何について言及しないのかということによって人格が立ち現れてくる部分があることだ。

このように、従来の掲示板などと異なり、それぞれのアカウントのメインページが個々のアカウントの行きつく先(ここでは人格と表した)を存在させていることは重要であるように思う。

⑵従来のSNSに比べ、コミュニティなどの「場」が存在しない

思えば、2000年代後半~2010年代前半、ガラケーからスマートフォン並行していく時期に流行していたSNSというとmixiやGREE、あとはモバゲーであったように思う。私もご多分に漏れず、ユーザーの1人だった。

そういったSNSを考えてみると、ニックネームから年齢、性別やプロフィールの文字数の自由さなど、Twitterに比べプロフィール欄が比較的充実していたように思う。そのアカウントを説明する要素が充実していた。
すなわち、⑴において書いたような「発言の蓄積」ではなく、アカウント(やプロフィール欄)に固有の人格が宿っていた(それが「リアル」であっても、例えば「キャラクターのなりきり」であっても)。

その点、「コミュニティ」や「サークル」の存在があったことも重要である。コミュニティやサークルは同じ趣味や嗜好を持った人々が集まるグループである。

おおよそプロフィール欄にはそのアカウントがどのようなコミュニティに入っているのかが記載されるので、それを通じておおよその趣味や嗜好がわかるようになっている。

他方、Twitterでこの機能を担っているのはハッシュタグであろう。「#~好きと繋がりたい」「#○○(特定の名詞)」などのように、ハッシュタグを辿ることによって共通の趣味・思考・意見を持つ人々と繋がることができる。

このハッシュタグはコミュニティなどの「場」ではなくツイートなどの「言葉」についてくることが特徴的だ。
結果として発生するのは、その固有名詞やハッシュタグについて、好きな人(肯定的な意見)もそうでない人(否定的な意見)の意見も、その発言過激さのいかんを問わず、全てが並列で記載されるという現象が起こる。特定のアカウント(例えば有名人)に対する返信(リプライ)も同様だ。

思えば興味深いことだが、Twitterでは「荒らし」という言葉をあまり聞かない。
Twitterでそれに類する様な言動を取ったアカウントに対して言及する場合、「クソリプ」という言葉がしばしば使われる。

すなわち、ここで興味深いのは、「荒らし」が「(すでに存在する)場を荒らす」行為について批判されるのに対し、「クソリプ」はその言葉(リプライ)について批判する言葉であるということだ。

もちろん、単純な二分法のみで分類はできないように思う。しかし、前者においては既に存在する「場」「土壌」を荒らすということが念頭にあるが、後者においては、「場」は自明ではない。

⑶140字という文字数

以上見てきたように、特定の場ではなく、言葉を中心にしたコミュニケーションが中心となるのがTwitterの特徴であると考える。

しかし、それにも関わらずTwitterには他のSNSと比較しても圧倒的に少ない文字数の制限(日本語版では140字)が存在するのであり、その文字数の中にはハッシュタグなども含まれている。

結果として、ハッシュタグなどによって端的にメッセージの意図するものを表明したり、「いかに端的にうまいこと言うか」が重要となってくる。

そうすると、話の文脈を共有していなかったり、そのアカウントについて詳しく知らなかった場合に、発言だけが強い印象をもたらすことになる。

このように、Twitterでのコミュニケーションは「言葉先行」の要素が多分にありながら、使える言葉が限られているというある種のジレンマを有している。しかし、そのことが結果として「誤読」や拡散などを生み、コミュニケーションを(良くも悪くも)「活発化」させているのではないだろうか。

何だかいつもよりかっちりした感じの文章に見えますが、思いついたことを書き連ねてみました。

で、これを踏まえて、コミュニケーションや議論は前提共有や相手がどういうコミュニケーションをとるのかを理解したうえで展開されていくものなので、上のような環境が本当にある場合、Twitterでのコミュニケーションというのはしばしばシンドイことになるんじゃなかろうかという話をしようと思ったのですけど、書き始めたら意外と少し長くなってしまったので、またそのうちに。

(ひとりでにコラム第15回・了)


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