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歌うように他のこともしたい

書けない書けないと思いながらなんとか文章を書くとか、描けない描けないと思いながらなんとか絵を描くことがある。なんとか形にしたいと手と頭を動かしてるうちに、いつの間にか目の前には文章や絵が現れている。さっきまで、自分の脳みその中にあっただけのものが、目の前に、自分と切り離されたものとして。そして、その目の前の「もの」を見つめて、また手を動かす。イメージを形にするために。あるいは、イメージを超えていくために。

ふと、歌うときは歌えない歌えないと思ってないな、と気づいた(人前で歌うのであれば緊張はするけれど)。

歌いながらここの音程難しいなとか、歌詞のここの部分発音しづらいなと感じることはある。けれどそれは冷静に自分の歌を聴いて、どうしたらもっといい歌がうたえるのかな、どうしたらもっとこの歌になれるかな、と考えている感覚なのだ。

(多分、その曲自体はもう「出来ているもの」だから、歌う行為にはいわゆる「生みの苦しみ」は伴わないのだろう。曲を作るとか、歌詞を書くとなると、書けない書けないと感じることはあるのかもしれない。)

どうしたらもっと、この歌になれるのかな。それは、「正解」に近づくことではなく、もっと自由なこと。歌うときは、歌そのものになりたい。

演じることとは違うとは思っているのだけど、それは私がお芝居をしたことがほとんどないからで、お芝居をしたことのある人に言わせれば、歌うことと演じることは近いのかもしれない。オペラとかミュージカルとかは、歌を通して役を演じているし。

歌うことと演じることが近いものであっていても。「歌そのものになりたい」という気持ちには、もっと生き物としての根っこにある感覚が含まれている気がする。

人の身体には何ヵ所も、声を共鳴させることのできる場所がある。人の身体そのものが楽器で、声は一人一人が持っている音色なんだ。

なんだかこれってもう、奇跡じゃないか。悪い声なんてない。人は、歌そのもの、音楽そのものになれると思っている。

踊ることも近いのかもしれない。自分の身体を使って表現すること。そこにはリズムがあり、感情の動きがある。

だけど、昔ある画家の方から聞いた話だと、「絵を描くことは多くの人が思っている以上に身体感覚」なのだそうだ。頭で考えるだけではないのだ。それはもちろん、そうなんだろうと思う。ある程度セオリーのある受験のデッサンであっても、理論を学ぶだけでは描けるようにならない。手を動かして描くこと。描いたものを見つめること。その繰り返しで、だんだん描ける身体になってくる。

何をするにも、身体がある生き物な以上、身体感覚は切っても切り離せないものなんだろう。画面の中に向かう時間が増えたって、それは変わらない。

最初の話に戻る。書けない書けないと思いながらなんとか文章を書いたり、描けない描けないと思いながらなんとか絵を描くことがある。それは脳みその中で山に登るような感覚で、しんどいけれどそれもまたよし。山を登りきったときに初めて見える景色があるから。

けれど、ときどきは歌うように書くことや描くこともできたらいいなと思う。

それをすること自体が楽しくて、よろこびであること。そんな風にして生まれた文章や絵や何かは、どんなものなんだろう。

分けられてる感覚を越えてみたいと、密かに思っている。

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