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映画『ジョーカー』と、ろくでもなない犯罪者と、ピエロと、AV女優と、己と

先日、己が己のダークサイドに堕ち込んでしまい、その時とその後に何となくぼんやりと考えていたことを自分の中で整理する為にここに備忘録として長々と色々書き記しておく。
書くことで気持ちが整理され、精神を安定させることが目的だ。


1

映画『ジョーカー』は、バッドマンの最大の敵であるジョーカーが誕生した経緯を描いたものだ(ここから先は内容のネタバレあり)

ジョーカーとは悪のカリスマだ。
その悪のカリスマはどのようにして誕生したのか。
この映画の内容に即して言えば、ジョーカーは突然にパッと誕生したわけではなく、成るようにして誕生してしまったのだと言える。

一流のコメディアンになることを夢見ていた主人公のアーサーは、精神の病気(発作的に笑ってしまう病気)を抱えながらも一生懸命にピエロのバイトに勤しんでいる。
彼は優しく真面目だ。そして孤独である。
彼は一生懸命に社会に順応していこうとするのだが、どうしても上手いこと社会に順応していくことが出来ない。
一生懸命に頑張ろうとすればする程、社会との「ズレ」や「溝」のようなものが生じていくのだ。

この映画の評価が高いのは、多くの人間がそういった主人公の思いに共感出来るところがあるからなのではないかと思う。

一生懸命やっているのに、努力もしているし創意工夫もしているのに、どうしても、ものごとが上手い方向に進んでいかない、そういった経験をしたことがある人間は世の中にそれなりに多いのではなかろうか。
主人公のアーサーはそれがずっと続いていくのだ。
アーサーは一生懸命に生きているのに、社会からの助けや理解はなく、社会に踏みつけられ続けていくのだ。

この映画は社会が悪いという話はしていない。
我々社会の一側面である「弱者や少数派に対する無関心さや無理解」を淡々と描いていく。
世の中の理不尽さや不条理さをひたすらに切り取っていき、そこに主人公のアーサーをひたすらにあてはめていくのだ。

そして、成るようにして成った結果、悪のカリスマジョーカーが誕生するのである。

俺は主人公の気持ちが凄く分かる。
一方で俺は、主人公を踏みつけていく社会を構成している人間の一人でもある。
俺は自分が知らないだけで、俺は何処かの誰かを踏みつけている可能性が当然にあるのだ。
いや、己が気付いていないだけで実際に踏みつけているのだろう。
そんなことを考えさせる映画だった。


2

「ジョーカー」を見たときに、俺は2008年に起きた「秋葉原無差別殺人事件(秋葉原無差別テロ)」と呼ばれる事件のことを思い出したのだ。
東京の秋葉原で起きた犯人の加藤智大による凄惨な通り魔殺傷事件についてだ。
この事件により7人の方が亡くなり、10人の方が重軽傷を負った。
当然に俺は事件の被害者や遺族に思いをリンクさせるので、「ろくでもない犯罪者」である加藤憎しとなるのだが、一方で、場合によっては俺はろくでもない犯罪者である加藤のような人間になっていた可能性もあると考えてしまうのだ。

加藤が事件を起こすに至るまでの動機や背景の考察については様々な関連書籍があるのだが、彼が事件を起こした理由を簡単にかつ乱暴に一言で表せば「社会憎悪」となる。

「社会憎悪」により引き起こされた事件は世界中にも多々あると思われ、記憶に新しい「京都アニメーション放火殺人事件」もそうであろう。

この「社会憎悪」という負の感情は、己が己のダークサイドに陥り、それにハマり続けた際に生み出され増幅していくものではないかと思うのだ。

俺が秋葉原無差別殺人事件の加藤のような人間にいまだなっていないのは、加藤よりも色々と恵まれていたからに過ぎないのではないか。
そんなことを思ってしまう。

俺が人生で最初に己のダークサイドに堕っこちたのは、両親が離婚して転校した小学5年生の時だ。
ボロボロの借家に引っ越した俺、妹、母親3人の母子家庭は、他の家と比べ相対的にかなり貧乏だった。
そんな我が家とは対象的に、新たに通学することになった小学校には、新興住宅地に住む小金持ちといった家庭が多かったように思う。
そこで俺はイジメの対象になった。

子供の世界では有りがちな話なのだが、残酷なことに自分たちと異質なものはイジメの対象となるのだ。
当時、時代はバブル経済だ。
片親で貧乏な家の子供であった俺は、その環境では理不尽にもイジメの対象となってしまったのだ。
しかも俺自身が両親の離婚のダメージから己のダークサイドに堕ちている状態であり、表情の乏しい性格の暗い子供になっていたから尚更だ。
当時は子供ながらにそれなりのダークサイドに陥っていた。
母親に恋人が出来て更に家庭がぐちゃぐちゃになるということも重なり、俺にとっては人生で最初に味わうダークサイドであった。
両親の離婚後の小学5年から中学1年の頃が俺にとっては最大の暗黒時代だった。

今思えば、母親もその内縁の夫も自分たちの恋に夢中なだけで、決して悪い人間でなかったのだが(今では、母親とその内縁の夫とも俺は良好な関係なのだが)、当時の俺はぐちゃぐちゃの家庭環境と学校でのイジメにより、かなりやさぐれていたのだ。

でも、それでも救いはあった。
色々な人間が俺を精神的に助けてくれたのだ。
身内や教師、似たような境遇の子供、そういった人達が俺に優しさを提供してくれた。
俺に関わってくれた多くの人間が、社会とはツラいだけでなく、優しい環境があることも教えてくれていたのだ。
これは非常に幸運なことである。
俺は自分の周囲の環境に恵まれていたのである。

この恵まれた環境があったかどうかが、俺と「ろくでもない犯罪者」である加藤のような人間との違いではないかと思うのだ。
つまり、俺はたまたま運が良く、加藤はたまたま運が悪かっただけの違いなのかも知れないと思うのだ。

勿論、加藤のような人間が行った犯罪は当然に擁護されるものではなく、決して許されるものではない。
しかし、俺も与えられた環境が異なれば、加藤のようなろくでもない犯罪者になっていた可能性を俺の中でどうしても捨てきれないのだ。

京アニ放火殺人事件で逮捕された人間が、事件後に医療スタッフに対して「こんなに優しくしてもらったことは、今までなかった」みたいなことを述べたと聞く。

一方の俺は「世の中には優しい人がいること」を子供の頃から体験していたのだ。
この違いは大きいのではないか。

俺がもしも、世の中にある様々な優しさに触れることがなかったならば、或いは、そのような優しさがあったとしても気付くだけの能力や感受性がなかったならば、俺は今頃どうなっていたのだろうと思うのだ。

そして、更に思うことは、もし俺が加藤のような「ろくでもない犯罪者」になっていたとしても、おそらく社会は悪くないのだ。
毒親と呼ばれような人間やそういったろくでもないと思われる人間がいることは間違いないと思う。それはそれで本当に酷い話だと思う。
それでいて、我々サピエンスの社会は、一人一人の精神状態を気にすることは難しいのだ。
そういう社会を作ることは極めて困難なことなのだろうと思う。

世の中には優しく愛に溢れた人は沢山いる。
でも、そのような人達にも出来る限度というものがある。
社会を構成している人間の大部分はまともであり、でも、先ずは自分とその周囲の人間の幸せの為に生きている。
つまり、我々人間は大事にする人間に優先順位があるのだ。当然のことである。
だから俺も含めて多くの人間は、世の中の全ての人間に対して優しくするのは不可能なのだ。当然、出来ることしかしない。
で、我々の住む社会とは、その結果の社会でしかないのだ。
それが我々サピエンスの社会の限界と言える。
良いとか悪いとかではなく、そういうものなのだ。
だからこそ、俺にとっては人の優しさに触れることが出来たことは、とても幸運なことだったのだ。

チンパンジーがいつまで経ってもその社会で「ジャンケン」を構築できないように、我々サピエンスにもきっと限界はあるのだろうと思う。
チンパンジーが「ジャンケン」のようなシステムをいつまで経っても構築出来ないように、我々サピエンスも「全ての人間に対して優しい社会」は構築出来ないのではないか、そんなことを思ってしまうのだ。
それでも可能な限りはそういった社会に近づいていくことを願う。
それと、我々サピエンスの進むべき方向性を定める為にもそういった理想はあるべきだとは思うのだ。


3

映画「ジョーカー」の主人公はピエロを演じていた。
ピエロ、道化師とは本来、人を楽しませる役割を与えられている。
でも、様々な作品でピエロは恐怖の対象に描かれることがある。
また、ピエロは悲しみを伴う対象としても描かれることもある。

人を楽しませる存在であるはずのピエロに恐怖や悲しみといった要素が内包されているのは何故なのだろうか。

それは、おそらくは自分の精神を押し殺して道化役を演じることが場合によってはあるからなのではないか。
笑いを提供している存在であったつもりが、いつしか笑われる対象でしかなくなったと感じたときに、己が与えられた役割と己の精神状態との解離が生じて、そこに悲しみが生まれ、また、そこに自己嫌悪と様々な憎悪のような負の感情が生まれてしまうことがあるのではないか。そんなことを思ってしまう(俺が道化役でそういった立場であるという話ではない)。

また、笑いを提供する存在とは、悲しみや怒りといった感情を見せてしまうと笑いの質が落ちるといったジレンマも抱えているのではないか。
道化役を演じる以上は、己の負の感情を押し殺し続けなくてはならない。負の感情を見せてしまう道化役は基本面白くないのだ。
ピエロはそういったツラさを溜め込んでしまう存在に成りうるのではないか。そんなことを思う。

真面目な人間である程、与えられた役割、期待されている役割をこなそうとする。
己をその役割にひたすらにあてはめようとする。だが、人間の心とは一つの役割を担い続ける程単純なものではない。
我々の脳は様々なモジュールの複合体である。我々の心(脳)とは決して一枚岩ではなく、様々な機能によって構成されたスマホやタブレット端末のような存在だ。我々の脳(心)とは電話のように一つのことをするだけの構造にはなっていない。
だから、一つの役割を演じ続けているとどこかで無理が生じるのではないか。
その無理さがピエロの悲しみであり、また、その無理が爆発した時にピエロは恐怖の対象となるのではないだろうか。

AV女優やグラビアのような仕事をしている女性は心が壊れることがあると言う。
無理もないような気がしてならない。
ひたすらに性の対象としての役割を演じなくてはならないからだ。
仕事だから役割を担って当たり前だと言ってしまえばそれまでだ。しかし、そのような役割を演じ続ければ、いつしか心が壊れてしまうのも当然のようにも思えてならない。
ピエロと通ずるツラさや痛みがあるのではなかろうかとどうしても思ってしまう。
いや、それ以上のような気もする。


4

社会憎悪のような感情を溜め込んで社会に復讐する人間は男性が多いような気がしてならない。
我々人間を「生物としてのヒト」「サピエンスという生き物」として捉えた場合、おそらくはサピエンスのオスはそういった暴力性を内包した生き物なのではないかと思ってしまうのだ。
ろくでもないことだが、サピエンスのオスはサピエンスのメスと比べてやはり色々とヤバいのではないか、そんなことを思ってしまう。
勿論、俺もそうだ。自分の中にあるおぞましい感情を思えば、きっとそうであろうという気がしてならない。

「殺人」という事象を、進化を含めた生物史からアプローチしている学問がある。
それによると、ヒトがヒトを殺しているのは圧倒的にサピエンスのオスが多いらしいのだ。

サピエンスのオスとはどえらい生き物で本当に嫌になる時がある。同族嫌悪みたいなものだろうか。
自傷行為や自殺は男性にも女性にも見られるが、社会憎悪を溜め込み社会に復習する人間に男性が多いのは、この生物としての特徴(脳の構造上の特徴)なのではないかと思ってしまう。

だからこそ、俺のようなサピエンスのオスは世の中に溢れている優しさに対する感受性を常に磨き続けなくてはならない。
世の中に溢れている優しさを素直に受け止め、感謝しなくてはならない。
世の中は自分が思っている以上に沢山の優しさに溢れているのだから。


5

映画「ジョーカー」の主人公は己の社会憎悪の増幅とそれに共感する多くの人間の負の感情により「悪のカリスマ」となった。
では、秋葉原事件の加藤のような社会憎悪を増幅させ社会に復習する存在は「悪のカリスマ」に成りうるのか。

恐ろしいことに、そのパフォーマンス次第ではあり得ると思う(パフォーマンスという言葉はあまり適切ではないと思うが他に言葉が見当たらなかった)。
また、場合によっては本人の意志とは関係のないところで、カリスマとして利用されることもあるだろうと思う。
映画「ジョーカー」ではピエロがシンボルとなるシーンが描かれているが、そういったことは充分に起こり得ることだろうと思ってしまう。

実際の世の中とは、絶対的な悪や絶対的な正義なんてものは少ないと思うのだ。
あるのはそれぞれの立場があり、それぞれの正義、それぞれの大義名分があるだけのように思えてならない。
だから、自分たちの立場とは別の立場のカリスマが「悪のカリスマ」となるのではないか。そんなことも思ってしまう。

我々サピエンスはどうしても世の中を善悪二元論で捉えがちなのだ。分かりやすい物語で世の中をぶった切って理解しようとしてしまう生き物なのだ。脳の構造上そうなっている。
自分たちの仲間は正義なのである。
そういったところに「悪のカリスマ」が生まれる余地があるような気がしてならない。
「悪のカリスマ」は立場によっては「正義のヒーロー」に見える場合もあると思うのだ。


6

最後に、俺がダークサイドに陥っていてしまう時はたいてい、疲労やストレスが蓄積している状態の時だ。
それに睡眠不足が加わるとろくな精神状態になっていない。
そんな時にネガティブなワードを自分の中に取り込んでしまうと一気に己のダークサイドに陥り、自己嫌悪や虚無感が自分の精神を覆ってしまう。
気を付けようと思う。

それにしても、今回も色々な人の優しさに俺は助けられた。
有難いことだと心から思う。

ええっ! ホント〜ですか。 非常〜に嬉しいです。