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【解決編】「散歩がつまらない」という自分が一番つまらない。

おはようございます。

だいぶ前に、散歩がまったくできない自分を嘆いて、
「散歩がつまらないという自分が一番つまらない」
という記事を書きました。

やはり、アウトプットというのはアンテナを張るという意味もあったのか(蜂蜜をたっぷり塗った割り箸を二本、鉢巻きにさして歩きだしたら、蜂や蝶が見つけてくれる感じでしょうか)、その記事をあげたほんの2,3日以内に、「おおっ!」と気づきのきっかけが向こうからやってきてくれました。

すると今度は、その気づきをどうやって自分の生活にアレンジしようかと試行錯誤するのがおもしろくなって、すっかり問題を投げかけたことを忘れておりました…。

しかし何事にも「形式美」というものは大切。
あくまでメモ程度ですが、人生をまたちょっと拓いてくれた問題に感謝する気持ちで、私も一応の解決編を記します。

気づきはふたつありました。

ありのままの自分を楽しむ

ひとつ目は、noteに記事を書いたことで、散歩を散歩として、ありのままの散歩として楽しんでいらっしゃる多くの方の記事に出逢えたこと。
noteアルゴリズムのおかげですね。

それにしても、みなさん、次元の高い!!
豊かな散歩生活を楽しむ記事に触れて、それだけでも心が澄んだのですが、中でも最も心に残ったのが、
「散歩とは、ありのままの自分との時間を楽しむもの」という、いくつかの記事。
目に映る景色を、触れる風を、流れる時間を、ありのままの自分を受けいれ、ただ歩く……なんて素敵なんでしょう。

ひるがえって私はというと、やれ散歩に「生産性が感じられない」だの、やれ「読書ができない」だの、よくもまあ恥ずかし気もなくここまで「ありのままではいられない、何者かになりたくてしかたがない自分」のオンパレードを書いたものだな、と。
先のような境地には、三回ぐらい生まれ変わらないと辿りつけなさそうです。

……なので、腹を据えてここは、「何者かになりたくて仕方がない私」こそが「ありのままの自分なのだ」と捉えまして、
「何者かになりたくてしかたがない私の散歩道(さんぽどう)」という道を、人生のテーマのひとつに決めました。

そして具体的には、
「散歩をしている間しか、音声配信を聞けない」
という足枷を設けました(とくにコテンラジオ)。

いったん蓋を開けたら終わりのコテンラジオ愛を語ることは控えるとして、音声配信を聴けないというのは、私にとってそれは、身も切られるようにつらい、というより、文字通り身を切られます。
つらすぎる。
そのためなら、1㎞でも2㎞でも歩きます。
平気です。

そう決めたとたん、平均歩数1000歩前後だった人間が、翌日から平均8000歩歩けるようになりました。
現金だ……。
「ありのままの自分でいられる散歩」という素敵すぎるコンセプトを逆手に取った習慣術は一応成功、したのでしょうか。

本物を手にとれずに、偽物でぴゃーぴゃー喜んでいる俗人ですが、今はなりふりかまわず、とにかく歩けて、死ななければいいのでヨシ。
千里の道も一歩から…次元の高い散歩への、まずは最初に一歩と信じます。

やり始めたばっかで、「やりがい」を求めるな。

これもたまたま耳にした言葉で、
「なにか新しい習慣を始めた時は、そこにやりがいをもとめず、とにかく体を慣らそう」というもの。

このシンプルさにやられました。
習うより慣れろ。
昔の方はよく言ったものですね。

私自身、日本語を教えていてもいつも思うのは、まだ体が言葉に慣れていない初期の段階で、やっぱりぐんと伸びるのは、まずは耳から入る子です。
「なんで?」「どうして?」「どうやったら?」「どの参考書がいいの?」
鉛筆もって辞書orアプリにかじりついて、これはこれでとっても大事な姿勢ですが、その前に体が(耳が)動いちゃって、という子に叶うものはないんですね……。

私も、散歩ができない体質でありながら、Day1から「やりがいって何?」とは、ふざけてました。

とにかく今は、四の五の言わずに、音声配信を聞くために歩きたいと思います。

三年後ぐらいには、

え?
散歩中に、散歩以外のことから「なにか」を得ようなんて、
そんなはしたないこと、考えたこともありません。

そう言っているはずです。

では!



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