見出し画像

自分の「常識」は誰かの「特別」かもしれないvol.1

「○○について得意だよね/詳しいよね?やってみたら?」

「いや、わたしなんて全然詳しくないから…」

「そんなことできる人たくさんいる…」

こんなやりとりを、経験したことはないですか? わたしはある。
とってもたくさん。

別に自信がものすごくないとか、わたしなんて…という自己肯定力が低いとか、そういうことでは全くなくて。
(なんならすぐにやりたいって手を挙げるタイプ 笑)

単純に、
①わたしよりも詳しい人を自分が知っている → その人の方が適任だ
②自分が知っていること=みんなが知っていること
この2つの方程式が頭にあった。


わたしより上手にできる人間はたくさんいる。
なによりも顔を思い浮かべることのできる身近な人たちが、それなものだから余計に「わたしはまだまだ」と感じていた気がする。

画像1

わたし達はコミュニティを好きに選べるようになった。
だからこそ、その分野に明るい友人知人が増えることは至極当然のことで、むしろ向上心や仲間意識が良い方向に作用することが多い。
情報は集まるし、質問しあってレベルアップもできる。
なにより同じものが共通して好きな人たちと過ごすことはとても楽しい。

けれど同時に。
その分野に明るい人が周りに多すぎて、どうしても比べてしまったり、当たり前が底上げされていることに気づかなかったりする。


ピラミッドの上部を占める「プロ級に詳しい人」がわたしの中での「いわゆる詳しい人」だ。
だってそうゆう人が圧倒的に周りに多いから。
けれど、まったく別の分野の人が見たら、わたしが「当たり前」に思っていることが「特別」だということだってあるらしい。


以前友人に裁判の流れを説明したことがある。
まさに、わたしにとっての当たり前なことだったけれど、他の人のそれではなかった。
単純に、わたしが法律や裁判の業界に居たから、環境により当たり前が底上げされていたに過ぎない。

そして思った。
せっかくそんな、黙っていても当たり前がアップデートされる素晴らしい環境にいるのに、「わたしはまだまだ」と後ずさりしてしまうことは、自分で自分をロープでぐるぐる巻きにして身動きとれなくしているようなものだと。

だってほら。わたしにとっては、お店のWEBSITEを作れたらものすごく詳しい人だし、プログラミングを少しでもできるなんて人はもうプロだ。
でもそっちの例えばIT方面に明るい人たちと一緒にいると、また違う感覚でしょう?
わからないけれど。

要は何が言いたいかって、自分のいる環境下では至極当たり前の、なんてことのないものでも、別の環境ではそれがめちゃくちゃ重宝されたり武器にだってなりうるということ。

画像2

それに気づけたのは、まさに好きが共通している人たちが集まるオンラインコミュニティ「#旅と写真と文章と」があったからだと思う。

正しい言い方かわからないけれど、お金を払って参加しているだけあって、荒らしみたいな人もいなく、それどころか謎にプロフェッショナルが集まっている。

いわゆるピラミッド上部層が多い。本当に多い。

「わたしはまだまだ」
その思いから、好きという思いまでも口に出せないような、そんな気持ちになったことも正直ある。実際まだまだだ。

けれど、彼らは決して否定しない。
例えばコミュニティでものづくりの話がでるとき、その道のプロフェッショナル複数人で集中して事を運んだほうが圧倒的に楽だし早いだろう。
なのに。

「(経験ないけど)やってみたい」と手を挙げた人たちを支え、誘導し、応援し、時にはアドバイスしながら「一緒に」進める。
面倒だろうに、ちゃちゃっと本当はやってしまえるだろうに。

そして驚くほど、人の意見や気持ちを素直に受け入れる。
自分の分野以外の興味が高く、それに対する学ぶ姿勢や、自分が知っている知識を自然にシェアし、新しいものや異なるものを理解しようと向き合う。
きっと共通するところはただシンプルで、みんなこの環境が、そして集まる人が好きなのだろうと思う。

そんな素敵な循環の中にいれること、またそこでレベルアップできることは本当に恵まれている。
だからこそ。
そこで底上げされた「当たり前」を「わたしなんてまだまだ」と変に後ろ向きな感情に使ってしまうのは、もったいない。そう思った。

どうせなら、「わたしはまだまだ、だからもっともっと」に持っていきたい。

画像3

わたしは旅が好き、写真が好き、英語が好き、言葉が好き、カフェが好き、アクセサリーをつくるのが好き、人と逢うことが好き。

このすべてが、きっとわたしより上手くできる人はたくさんいる。
けれど、自分が言わないと、そのステージに上がらないと、他の人はわたしが好きなことも得意なこともやりたいことも知れないから。
知れない、伝わらない=ないことと同義になってしまうから。



挑戦へのハードルがきっと、わたしは高かった。
この「自分の知っていること=他人も知っていること」の方程式ってちょっとやっかいだ。
だって実際問題、自分より知識がある人は多いから。

でも、もしかしたらそれが思ったより武器になるかもよってこと。そして、選択肢を自ら狭めてしまうのってもったいないってこと。シンプルにそれだけ。

だってステージに上がった後の方が、やらないといけないこと、考えないといけないことはきっと多いから。
結局悩むのに、最初に自分の縛ったロープと戦って疲弊するのって無駄じゃないけどやっぱりもったいない。

だから最近は、言うようにしている。もっと表現もしようと思う。
なりたい自分を思い描くこと、それを伝える練習をすること、その手の情報が舞い込んでくること、それを現実化させる手段を考えること。
苦しいことも少しはあるけど、ぜんぶ楽しいよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?