見出し画像

補聴器も人工内耳もしない選択


私は8歳の頃から原因不明の感音性難聴(かんおんせいなんちょう)のため、補聴器を使用してきた。
大人になるにつれて、聴力が悪化し今では両耳100dBの重度の難聴である。

補聴器をして音は聞こえても言葉として理解できない事も多く、そこから伝わるのはあくまでも機械音であり、人間の耳のように聞こえるわけではない。

むしろ雑音に悩まされて耳や頭、肩が痛くなったり、補聴器をしている事で、他者に普通に聞こえていると思われて余計に苦しい思いをする事が多かった。

耳が聞こえない私は、一生懸命相手の口の形、顔の表情や仕草を読み取る事に集中し、今は何を話しているのだろうかと、辛うじて読み取れた単語から文脈を想像して会話をしている。

健聴者にとって『聞く』というあたり前の事でも聞こえない私にとっては、とてつもなく労力がいるのだ。

それでも私は今まで何の疑問も持たずに補聴器をして、健聴者に合わせて生活をしてきたが、ある時からなぜ私は肉体的にも精神的にも辛い思いをしながら生き、孤独を感じなければならないのか、『聞こえない』というありのままの私ではいけないのだろうか、と疑問を持ち始めた。

聞こえない事は、周りに迷惑をかける弱者なのか?
いつも「すみません。」と謝っているが、聞こえない事は私が悪いのか?
補聴器でもダメなら、人工内耳をしてでも聞こえるようにするべきなのか?

耳の障害に限らず、マイノリティ(少数派)はマジョリティ(多数派)に必然的に合わせなければならない社会が嫌になり
あえて補聴器をしない生活を始めてみた。

インターネットで似たような境遇の人がいないか『補聴器 やめる やめたい』などと検索しても何も出てこない。
むしろ補聴器をしないと認知能力の低下につながるだの、そんな話ばかりだ。
こんなに頭をフルに働かせながら、聴覚以外の感覚も研ぎ澄ませながら会話をしているというのに!

補聴器を外せば自分の声もほとんど聞こえない、私にとっては未知の音の無い世界だ。
手話もまだ勉強中のため、ろう者の世界にも入れず、読唇術だけでは今まで以上に会話が困難になる。

しかし、そこにはまた違った新しい目線や発見があり、自分の視野が広がった。

毎日起床時から就寝前まで補聴器で塞がれていた耳の穴が、風を感じて心地よいし、
筆談や音声文字変換アプリの使用で今までのように聞くことに無理に集中しなくて済み、疲労が軽減される。

ろう者の世界や手話にも種類があるなど、今まで知らなかった事を学ぶようになり、手話をひとつの言語として覚える楽しさにも気付き始めた。

私が音のない世界で生きる事を、一番身近にいる家族よりも、初めて会う人の方が理解があったり、友人達や周りの人達に助けられるほど優しさを感じられ、今まで会話に入れず我慢をしたり、聞こえたふりをすることもなく、安心して本当の自分を出せる。

そんな仲間に囲まれた私は
耳は不自由であるが、決して不幸ではない。
むしろ幸せ者だ。

私は補聴器をしない事でやっと、自分が聞こえないことを本当の意味で受け入れる事ができるようになった。

そして、これからは『世の中には補聴器をあえてしない、そんな選択をする人がいてあたり前』になるような活動を自らしていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?