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"男のロマン"としての"エロ"について

「エロは男のロマン」

と、友人の男は言った。
今日みたいに、ゲリラ豪雨の日、雨宿りの為に立ち寄ったファミレスで聞いた言葉だった。

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「コンビニにあるエロ本があった時代」について友人数人で話をしていた時だ。老若男女問わず使うコンビニに、目隠しをされた半裸の女性の表紙と淫らな言葉。幼少期にコンビニへ行くと目につく当たり前の光景。それを真剣な表情で立ち読みする男性。「見られる女性」「見る男性」という構造を、あのようにパブリックな場所で目の当たりにする日常は、今思えば”異常な過去”であった。

特に過激な表現と誤った性知識を煽るアダルトコンテンツは、ビデオ屋のように隔離されていたり、インターネットのように能動的に情報を取りにいかないとみられない位置にあるべきなのだが、それがコンビニエンスにパブリックに存在する有害さは、計り知れないものがあったであろう。

友人達の意見が概ね「廃止して良かった」という方向で着地しようとする時、1人の友人男性がこう言った。

「可愛い女性店員さんのレジでアダルト本を購入するのは興奮する。それが無くなったのは残念だし、そこまでする必要あるのか。エロは男のロマンなのに。」

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ここまでツッコみ所の濃縮された言葉は、芸術点を掲げたくなる。

まず可愛い女性店員さんについて考えてみよう。彼女はどう思うだろう。女性が「見られる側」である事を意識せざるを得ないコンビニのアダルト本や電車の中吊り広告を見て日常を過ごす彼女は、もちろん自分も見られる側である事を認識している。そんな中で、客の男性がアダルト本を持って自分のレジで会計をする。仮に隣のレジに別の店員がいるのに、彼女の所で会計をしたのならば、どう思うだろうか。「見る側」であると思われる男性が、まさに「見る側が見る為に買う本」を、「見られる自分」のレジで買おうとしているのだ。その時、彼女はどう思うだろう。そこまでの想像力は、無いものだろうか。仮にあったとしても、彼自身の興奮の前に、それを更に助長させるものになるのだろうか。

そして次に、「エロは男のロマン」という発言について。ここでいうロマンはきっと、”夢に対するあこがれ”というような意味合いで使われているものだろうが、ロマンという言葉の壮大さと健全さというオブラートで、この時に彼が言った"エロ"が孕む加虐性を包んじゃってるよね。
そもそも、私も女性が大好きで、女性に性的感情を抱く人間だが、一度だって「エロはロマンなんだから認めろ」なんてみっともない要求した事も、したいと思った事も無いわ。同じ女性を愛する者として、非常に恥ずかしいのだ。

とまあ、上記のような事を彼に伝え、「共に清く正しく美しく、女性を愛そう」という結論で握手を交わした。

ゲリラ豪雨が過ぎ去り、ファミレスで会計を終えた私達。

「ここのファミレス、制服エロくていいよね~」という彼。

清く正しく美しくあるのは、時間がかかる。