変えようとしない
結局、変えようとしても変わらない。
気づいてもらうか、気づいてもらえるように働きかけるか。
もしくは気づくまで待つか。
外的な動機ではなく内的な動機から変わらないことには、本当の意味で変わったとはいえない。
そして、内的は動機は他人が左右できることではないってこと。
よって、変えられないのである。
だから、人を変えようとしないのである。
・・・
ここはデイサービス。
ひとりで席を立つと危ない利用者さん。ひとりで歩きに行って何度も転倒している。施設でも自宅でも転倒している。
不幸中の幸いとでもいうのか、大きな怪我はなく骨折もなく、打撲と擦り傷でなんとかなっている。神に守られいるのか、それとも小学性の守護霊でも憑いているのか。
でも、つぎ転んでも大丈夫なんて保証は何もない。
綱渡り状態なのに、ほっそい命綱なのかもしれないのに。当の本人はそのことにまるで気づいていないのである。
それみたことか、またひとりで席を立とうとしている。
「自分は大丈夫だ」と思い込むことは悪いことではないが、それが過信になると痛い目に遭う。
「シルバーカーを使いましょう」「杖を使いましょう」「一緒に行くので少しお待ちいただけませんか?」
優しさと気遣いを込めた言葉は、その利用者さんの耳には届かない。逆に「いいから!」と言って跳ね返されてしまう。
もう、何を言っても聞かない。
利用者さんとぼくの認識が違っているから。
一方は平気!平気、一方はあかんあかん。
利用者さんの「平気」には勝てない。こうなると流れに身を任せ、放っておくしかない。歩行介助や見守りをしないということではなく、本人の意思を尊重するという意味で。
変えようとしたって変わらないから。待つしかない。
転ぶのを待つのではなく、安全に歩くためにはどうしたらいいか。その機微を察知し適切なタイミングで、
「シルバーカーを使いましょう」「杖を使いましょう」「一緒に行くので少しお待ちいただけませんか?」
と声をかけるのである。
・・・
わかってはいる。理屈ではわかっている。でも、我慢ができないのが人間。
介護の現場だけでなく、人付き合い・仕事・子育て・親子・兄弟。
人間関係が生まれるところには、この「人を変えよう・人は変わる」というバイアスが蠢(うごめ)いている。
他人を変えようとして、ほどなくして後悔する。
ああ、変えることはできないのだった。気づかせることに気づくべきだったと。
葛藤のシーソーがギッコンバッタン。
変えられるのは常に自分。
変わるのは常に自分。
なのであーる。
介護は大変。介護職はキツイ。そんなネガティブなイメージを覆したいと思っています。介護職は人間的成長ができるクリエイティブで素晴らしい仕事です。家族介護者の方も支援していけるように、この活動を応援してください!よろしくお願いいたします。