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悲しみを語ること

今日の午前。

とある駅のホーム。
単線の線路には1時間に数本の電車しか来ない。

駅のホームから、柿の木が見えた。
柿がなっている。

秋になり、まもなく冬だ。

夏、ちょうどお盆に亡くなった母のことを想う。

末期がんと診断されてからひと月と少し。
どうしても家に帰って布団で寝たい。

そんな本人の思いを叶えるため、
医者さんも看護師さんも
多くのひとに助けてもらい、8月のある日
退院した。

帰宅したその日の夜。

苦しみに悶え、酸素マスクを外そうとする。
真夜中に救急車を呼ぶ。
到着した隊員は、駆けつけた在宅の先生と
引き継ぎをして、わたしは咄嗟に必要なものをかき集めて、父をひとり残して、救急車に飛び乗る。

サイレンをけたたましく鳴らし、
止まらない救急車。

すぐに退院したばかりの病院に
24時間も経たずに戻る。

そのとき以降のその日の記憶は
いまははっきりしない。

たしか始発の電車で家に帰り、
父と朝ごはんを食べた記憶しかない。

それから四日後。

真夜中に病院から電話が鳴り、
タクシーで急ぐ。

すでに呼吸はしていない。
息を引き取った。

告知を受けたとき、
こっそりと大泣きした。

そう語ったことがある。

真夜中の病室から、
母は入院したときに着てきた服を着て、
そのまま運ばれていった。

その後、悲しみの想いを深く感じることに
無意識に蓋をしてきた。

蓋をすることで生活をまわした。
わたしが倒れたら、家がまわらない。


やがて11月。

今日は天気が良いので、
母とよく行っていた場所に出かけた。

単線のホーム。

見える柿。

ホームでは、米津玄師のlemonを聴いていた。

告知以来、はじめて悲しいと思った。

かつて共に歩いていた道を辿る。
その風景に悲しみを感じてしまったようだ。

この悲しみについて隣で「直接」語りかける人はいないのだ。「触れ合う距離」で、「直接」面と向かって話すことが制限される中、母のことを知る人と話すことは叶わない。

わたしは受けていた心理療法もやめてしまったから、コトバで心のうちを「直接」語りかける人がいない。

話せる人はいる。

しかし、母を知る人と悲しみの想いや時間、空間を共有したいと思った。

本来、葬儀や、残された家族、親戚との対話の中で、そういう想いは昇華されるのだろうが、それは今回なかった。

今日突然に吹き出してきた想い。

その想いにまた蓋をした。

なかなか来ない電車。

柿を見ながらlemonを聴く。

やっときた電車に乗り込む。


ホームの自販機で蕎麦茶を買った。

香ばしい香りと蓋をした違和感を感じながら
多くの人が行き交う街へ戻った。

若松英輔さんの本、「不滅の哲学 池田晶子」の一節を思い出した。

困難があり、それを単に解消することが「救い」なのではない。むしろ、避け難い人生の経験を前にしながら、それを生き抜く道程の同伴者であることが「救い」となる。「救う」とは寄り添うこと、共に生きることだと彼女はいう。
7頁
*ここでいう「彼女」は池田晶子氏のこと
「言葉」が人間に迫り来るとき、その促しに耐えきれず、人は思わず「美しい」と口にするのかもしれない。その時だまって絵筆を執る者は画家になり、木に彫り込む者は彫刻家になる。言葉は、信頼を寄せる者には友となり、それを愛する者には不可視な同伴者となる。
20頁

また明日が始まる。

ではまた。


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