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店も人もなくなる前に評価すべきなのだ、金と愛の両方で

2月末も、多くの店が営業を終了してしまった。
福岡市近郊だと、小倉駅前の商業施設ビル井筒屋コレットが閉鎖して、縦に重なった街が一つ消えたらしい。かつての100万都市北九州市の悲哀、さらに…

店がなくなると、いつものお決まりフレーズがあちこちに躍る。『好きだったのに残念だ』『最後にもう一度行きたかった』『いつか行ってみたかったのに』…人の訃報に接した時の、お悔やみと同じだ。

だったらなぜ、そうできるうちにもっと行っておかなかったんだ?評価しなかったんでしょ?だからなくなったんじゃないの?嘆くような人が足を運ばないことで、店が消えていく。

例えば、飲食店の評価システムとして、星の数やコメントはどうでもいいので、結局、何回行って、自腹でいくら金を払ったのか?数値で判断するというのは、ある意味とても妥当な指標だ。常連が店を支える。近頃、評価が貨幣価値を持って流通する評価経済などといわれることもあるけれど、昔から、経済価値が評価でもあったのだ。
一方、店の側にしてみれば、たとえ使った額は少なくても、関心を持ってくれるだけでなく、他者にも紹介したり、場所が離れても心のどこかで気にかけてくれたりと、別の形で支援してくれるファンも、とてもありがたい存在だ。時に、この人たちの言動は、金銭価値以上のバリューを生む。

ある日何かが永久に失われて、心から深く悲しむ人たちと、単に自分を彩る背景に使いたいだけの人とは、その瞬間だけ切り取れば、実際のところ区別が付きにくい。
自分自身だって、身勝手な客の一人。なくなったことで初めて、実は自分が思っていた以上に大切に感じていたことに気づくことがある。かと思えば、まるで「残念に思っている役」を演じているような気になることもある。どちらも、そんな自分に二重にショックを受けたりするのだ。なんて矛盾だらけなんだ。

自分は果たして、誰かを、何かを、ちゃんと評価できているか?そうできる、そのタイミングを逃さずに、ちゃんと相手に届く金や感謝、敬意をペイしてるか?数字と、それ以外の両方で、相手に伝わっているか?そうしてくれているのは誰だ?
こんなことでモヤモヤしている暇があったら、さっさと確定申告を終わらせるべきなのはわかっている。でもあの店はさ、本当にもう一度行きたかったんだよな…

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