【生活は患い】録るということ

 次々と不謹慎不愉快極まりない動画を上げる同世代が、ニュースをざわつかせる。
所謂、"バカッター"と呼ばれた人たちだ。

 彼らは何故そんなに目立ちたいのか。

 若気の至りとも言えてしまう軽犯罪のそれは、人間の記憶という機能に結ばれると推察する。
 メディアが増えたことで、新たな言葉が生まれた。「陽キャ」や「パリピ」といった社会的に派手で活動的な行動をする人たちを示す言葉には、身近な接続語のように「自撮り」という行為が欠かせない。
 僕は昔から写真が嫌いで、集合写真も家族写真もどことなく照れくさくて避けた。
 しかしここ最近、そんな僕はポートレートの被写体になることに興味がある。
それは、普段着としては目立つようなゴシック風、スチームパンク風な物語性を含んだ洋服を鑑賞し、纏う"衣装趣味"(僕の造語である)を持ったからだ。
 それをきっかけに、撮ることが面白いと感じるようになった。他人の撮られたものを見るのも、また、面白いと思った。

 そこで気がつく。
僕は昔から録ることをしていたじゃあないか、と。

 授業中、必死でノートに書きなぐった物語も、文芸部の部室で同期と笑いながら空想した二次創作も、全て頭の中のイメージを録っていたのだ。
 今だってそう。考えを書き出している。
記憶に残すために、その瞬間を留めておくために。

 勿論、法と倫理に触れること宜しくない。
それでも、録るという行為に注がれるエネルギーは生きているためには必要なのだと思う。

 今日も誰かの記憶の一瞬に立ち会う。
動画や写真や文章や生きたことばに。
そうして僕は生きていることを知らしめたい。
ここにいることを証明して、一瞬の思考を残そう。

 まぁ本当は、紙に書いた方が残るのだけれどね。
最も確実なのは粘土板だったかな。
それでは、楔文字でも習得するかな、なんてね。

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