司会をすること企画をたてること

大学院時代から、学業や仕事の傍ら、70本以上イベントをしてきて、昨年から「聞いたり話したりする会」を主に開くようになり、3月30日(木)に西八王子で「司会をする会」を開く。

「司会をする会」は、参加者が順番で司会をしていきながら、司会という存在は何なのかを聞いたり話したりしながら、まさに司会をすることによって、司会という存在、役回りについて考えてみる会である。

なんでこんな会を思いついたかというと、対話する場の司会を繰り返しやってきて、司会する経験は、広くいろんな人にとって貴重な体験だと思ったから。

大学院時代に受けた授業に、先生ではなく学生が司会をする授業があった。学生が発表する授業や、グループ内で司会をする授業はたくさんある。でもその授業では、発表が始まる瞬間からそのあとの全員でのディスカッションまで、司会は先生ではなく、院生の持ち回り。

発表は、自分が知っていることすでに理解していることを言えばなんとかなる。でも司会は、他人が言ったことをその場で理解し、さらに別の他人に投げかけ、話を回していかなくてはならない。自分の意見だけを言えばいいというものではないし、どこかに肩入れするものでもない。

きっとこの体験は、たまたま司会をする人生を送っている人だけでなく、いろんな方が味わってみても発見のある経験なのではないか。

司会をすることには、多様性の体現のような側面がある。イベントと日常では人と人の関係性や距離感が違うので、まったく同じ話ではないけれど、聞くこと、誰からも等しく距離をとりながら場を作っていく体験や視界は、多様な人と人が生きていく社会において、大事な力になっていくのでは。

そしてもう一つ、司会をするとか、もっと言うと企画を立てて何かを仕掛けることは、自分が問題を解決するために動く側に回ることだと思う。お客さんになりに行くのではなく、聞いてもらいに行くのでもなく、ご馳走(~に参加すれば…が身につくとか)が出てくるのを待つことでもない。

社会に何か問題を感じたときに、自分が思っている自分の正しさを言えば相手は当然同意するべきだと思っていると、すぐ闘いになる。何かまずいなと感じたときに、それダメだよと言う以外に、どうしたらいろんな人が気持ちよく動く気になるのか、その変化はどんなことから始まるのか。何かをしながら自然とそれが体感できることはないだろうかとか、それが自然にできる仕組みは作れないかとか。

企画を立てる、とは、そういうことを考えること動くことではないかと思うし、そこが、司会をすることにもつながるとも思う。なんであの人(たち)はこうしてくれないんだろう、の前に、なんであの人(たち)はああ感じるのかなああするのかなとか、逆になんで自分(たち)はこう考えるのかなとか、そこに橋をかけるにはどうしたらいいんだろうということを、他人だけに橋を渡らせる気ではなく考えること。

いや、私自身もまだよくわからない、わからないから聞いたり話したり聞いたり話したりしてみたい。

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