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だから、そこに有機性はない。

なんとなく、ライトだと感じている。

積み上げた石にコンクリートを流した構造体、キャンバス張りのフレームを、木造のトラスに嵌め込んだ、まるでテントのような屋根、室内に溢れる半外的な太陽の光、タリアセン・ウェストのコンセプトは、限りなく今的だし、有機的建築 (organic architecture) というタームも、マーケティングとしてはオン・タイムだろう。
シンプルな箱も悪くはないけれど、もうちょっと暖かいものがほしいなあといった気分か。

「ライトの建築は、ふだんに見直され、ふだんに見棄てられる運命にある。それは、生命としての人間の根っこをライトはあけっぴろげなまでのしつこさで、ひっつかまえているからだ。 時代の流れに見合った新しい様式の登場で、しぶしぶライトは退場するが、すぐまた顔を出してくる。新傾向が、たちまち息詰って、くたびれ、あきられてしまうからである。ゲーテの『ファウスト』の言葉でいえば、「わたしたちが霊の言葉をささやくと、あなたが来て、そのとおりのものを見せてくれる」のがライトの建築である」

帯にこんなことが書いてある本に出会った。
同じような想いをもっている人がいる。

ただその「有機的建築」ってやつがどうもわかりにくいのだ。

□ フランク・ロイド・ライトの呪術空間 | 草森紳一 | フィルム・アート社 |  2009

草森紳一は、「あの猿を見よ - 江戸佯狂伝」や「見立て狂い」という本を前に紹介したが、そもそも「江戸のデザイン」や「穴」なんていうマイナーなテーマの本で注目された人だけあって、こういうちょっとへんなトピックに関しては嗅覚が鋭い。

ともかく蔵書4万冊という博覧強記の人である。

もともとは「書ける建築家」磯崎新さんにそそのかされてはじまったという、建築雑誌「SD」での連載だそうだが、この人のアプローチは、対象に向かって真っ直ぐに切り込むといったものではなく、好奇心のおもむくままに、あっちへフラフラ、こっちにフラフラというような酔拳スタイルだから、読み終えるのには難渋した。

本は、1974年にライト・ツアーで訪れた、オクラホマでの話から、そっと始まる。そして間をおかず、岡倉天心と老子を引用し、「茶の本」を初めて読んだライトのことへと、彼のイマジネーションが走る。

内部空間(inner space)こそ建物の実体(reality) であるという考え方を自分の発見だと思いこんでいた自信家ライトが衝撃を受けたという、天心の「茶の本」にある老子の言葉。

「部屋のリアリティは、屋根や壁で閉じられたスペースにこそあって、屋根や壁それ自体にあるわけではない」
"The reality of the building does not consist in roof and walls but in the space within to be lived in."

タリアセン・ウエストの「趣味の悪いパウンドケーキのような気味合いの」壁に、ライトの自筆で刻印されたその言葉とのシンクロニシティー。

彼は、こういうことを発掘しながら、ライトの言う「有機的建築」が、老子的あるいは道教的(=呪術的)なものと密接にリンクしているのではないかという、仮説を導き出す。

草森紳一的「見立て」

そんなライトの建築への批評的考察の合間に、カウフマン邸(落水荘)やスタンフォードのハナ邸など実作品の訪問記が貫入され、ソローやエマーソンや夢野久作などを、それぞれの空間の解釈に引用しながら、考察の間口を拡げる。もちろん「有機建築の魔法」というのが底を流れるテーマだから、そのポイントを大きく外すことはないのだけれど、振幅の巾が、こちらのキャパシティーよりはるかに大きくて、ともすれば酩酊状態に陥ってしまう。

2日ほどかけて、この本を読むうちに(それも行きつ戻りつ)何回かそんな状態になった。いつものように寝転んで読んでいると、そのうち頭がクラクラになり、何を読んでいるのかわからなくなって、気絶するように眠りに落ちてしまうのだ。

この本こそが、迷宮じゃないのかという気になってくる。

草森さんも述べているけれど、そもそも「organic」の訳語としての「有機」っていう言葉自体がなんとなくしっくりこない。そしてそこに建築が加わるともっとわからない。本棚にあるライトの作品の写真やドローイングを見ていても、そしてこの草森ライト論を読めばなおさら、ああこれがそうなんだ、という焦点の合ったイメージにたどり着かないのだ。

「有機的建築とは、外からあてがわれた形態に合わせて造られるようなものではない。その建築が必要とする全ての要素が調和し、内から外へと発展していく建築である」

ライト自らは、このように説明しているけれど、これって今盛んに言われている「自然と共存する」なんていう単純な話ではなくて、人間が造った建築そのものを有機体と認識しようという話、もっといえば、スタイルではなく、スピリットの話なんじゃないだろうか。

「それは難解なからではない。やさしすぎる位だ。自然、単純、完一、そして自由と個性がキーワードで、それが<有機>なるものによって総括される。・・それらを理解するのに、困難はないが、問題なのは、このわかるということが、ほとんど無意味なのである。
ライトのキーワード、<自由>にしても<自然>にしても、ましてや<有機>は魔術書の常套句であり、この言葉を理解したところで、たちどころに有機建築を地上に打ち立てるわけにいかない。機械技術者、数学者、医師、錬金術師、詩人、音楽家、建築家が、かつてしばしば呪術師でもあったのは、<自然>にかかわり合うのを業としたからである」

相伝できない秘伝、ということか。
理解できるがわからないことって、けっきょくは、魔法のようなものだ。

禅的公案 : 庭は、どこで終わり、家はどこからはじまるのか ( by F.L.Wright )

10匹の猫がひとつの家に飼われていれば、お互いに適度な距離感をもって暮らす。たとえば、庭でその一匹一匹が昼寝をするときの、その絶妙な配置感を、道教的には「安排(anpai)」というらしい。

「現在は移動する無窮である。相対性の合法な活動範囲である。相対性は安排を求める。安排は術である」

「安排」とは、つまり官能(有機)のデザインのことだ。

そして、さらに彼はアメリカで信号待ちをしている人たちの配置にもその玄妙を感じ、
「おそらく、これは、彼らの個人主義の力のせいではないだろうか。ライトの信奉する個人主義は、相対性に根ざしているので、無意識なまでの個々の位置どりが全体として見る時、絶妙な安排を作りだす。日本人がだらだらぐずぐずした不細工な安排で群がるの は、おそらく依存心強く<自分>というものが欠けているからだろう。・・・このことは日本の現代住宅にも、かたちとなってはねかえっている。だから、そこに有機性はない」
と付け加える。

「有機」の円環が、こんなところで閉じた。

巻末で写真家の大倉舜二さんが、献じている「追悼文的・跋<ライト・ツアー>」という文章が、切なくて、甘くて、とてもいい。

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