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真作と贋作

 椅子の偽物はありえない,というテーゼを耳にした。私は偽物を実はその本質を網羅しないのに,恰もそれを備えるかのように錯覚せしむるものであると定義しているから,素朴にはこのテーゼに「少なくともアナモフィックアートにおける椅子は椅子の偽物と評してよかろう」と反論したくなる。が,このテーゼの主旨に(誤解を恐れずに言えば!)デカルト的な含蓄を仄見ることはできるし,本項ではこの含蓄について取り上げたい。

 即ち,それを偽造するのにあたって必然にそれの本質を備えてしまうような──偽物ではありえぬものはあるかと問いたいのである(むろん,既述のように「椅子」はそれとして不足すると私は思う)。

 素朴には,偽物の定義が「実はその本質を網羅しないのに,恰もそれを備えるかのように錯覚せしむるものである」から,この「錯覚せしむる」材料たる感覚によって「その本質を網羅」せしむるようなものが,この問いの解,すなわち偽物ではありえぬものとなるようにおもえる。

 例えば,痛みを生ぜしめたもの嬉しさを生ぜしめたものはこの解によって導かれる具体例である。剣山の偽物はありうる。触れたところに痛みが生じたから,そこに剣山が有ると判じたところで,それはよく見ればハリネズミやタワシかもしれぬ。が,さような感覚が生じたということそのものを本質とするようなもの(この場合では〝痛みを生ぜしめたもの〟)をそこに判ずるときには,もはやこの判断には不可謬性を認めてもよいのではあるまいか。

 ところが,次のような反論を考えることができるかも知れぬ。即ち,『私は,怒りであると判ぜられた感覚が後々になって実は嫉妬であったと判じ直される場合を認める。この場合を,あの怒りを生ぜしめたものは,嫉妬を生ぜしめたものの偽物であったと評することはできよう』旨の反論である。

 これには,パラダイムをモデライズすることで対処したいとおもう。つまり,当時のパラダイムにおいてという枕詞を,明示と黙示とを問わずに導入することで,「あの怒りを生ぜしめたもの」の不可謬性を認めることができるのではなかろうか。

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