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芸術の本質とミミック

 芸術に対するもっぱら制度論* 的な意味付けには〝特別なコンテクストの補強なく私の霊感を掻き立てる造形美の存在は認めざるを得ない〟旨の批判がある。これは結構なことであるが,制度によって芸術に擬態できる何かがあるという事情は興味深い。

 さて,この擬態者をミミックと仮称すると,けだしミミックは尊敬によって魔術化された(物質,構造,音楽を問わない)ものだと言えよう。

 つまり,例えば被尊敬者が「A の価値がわからぬか」と尊敬者を叱咤するとき,しばしば A がミミックとしてその尊敬者の内に現れるのであろう。

 私は,(得てして支配的な)或る言語の残念な限界** を,新調した言語によって剔抉してみせる営みを芸術だと定義しているので,先の叱咤は「A の顕現によって或る言語の限界が剔抉されていることに気付かぬか」と敷衍されてよい。

 この定義によれば,例えば英語圏の人は日本の〝わびさび〟に一時的には芸術性を感じるかも知れぬが,これを wabisabi として自国の言語の中に回収することは(音楽や彫刻によって顕現させる類のものと比して)さほど難しくない。

 つまり,芸術の本願は受信者の言語の限界を剔抉すること,即ち,芸術とはがんらい彼の言語に捉えられてはならないものであるがゆえに,ミミックと「権威」は繋がり易いのである。

 X を有意味なものとして回収できる新奇的言語を編めた暁には X を芸術だと追認すべき他方で,X をミミックだと追認すべき事態は考えにくい。

 ミミックは,X を回収せんとする営みの諦念を表するサイン若しくはレッテルとしてプラグマティックに捉えた方がよかろう。

 むろん,例えば,作者が「実はこれは作品ではない。私が偶々かけていた眼鏡をそこに置いただけのものだ」と自白したことは,その眼鏡をミミックだと追認すべき事情とはかぎらぬ。ものには,その作者の意図と独立した芸術性が恒にありうるからである(作者の意図そのものによって在らしめられる芸術性もあるかもしれぬ)。

*「制度論」とは,芸術とは制度的に仮構されるものだとする考え方のことである。例えば,私が悪戯で,仰々しい美術館のそれらしきスペースに買ったばかりの鉛筆を置けば,それが何人かの人々に芸術を予感させるかもしれぬ。かように,仰々しい美術館に置かれていたり,周りの人々が凝視しているから宿る魅力が芸術だということである(むろん私はこれに批判的である)。

** 親しんだ自然言語では捉え難いものが,しかしこの芸術において示されて,否,現されている事態を「…残念な限界」と表した。たんなる言語の限界の剔抉では芸術を感ぜられないものもあるように私にはおもわれる。自然言語では捉えきれていない何か魅力的なものを別の仕方で伝えて(表して)みせる技術をこそ芸術と称えるべきではあるまいか。

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