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中学生のためのプロダクトデザイン入門

この文章は『d long life design』11号掲載に掲載されたものです。
2006年の9月に出版されたものなので、すでに15年以上の歳月が経過しました。しかし今読み返しても書いている内容に風化は感じません。(携帯電話という表現は過去形ですが)
その理由は「流行に敏感な仕事であるプロダクトデザイン」にも、人と人との関わりが大切で、その事自体は普遍であるからだと思います。
追記:文章の区切りのために「共感と協調」を今回追記しました。

はじめに

『今興味がある事を、中学生にも読む事が出来て客観的な視点で書いてほしい』というのが編集の方からの依頼内容でした。
興味=大切に思っている事・中学生=将来の夢という風にわたしの中で連想が進んでその結果が、『将来プロダクトデザイナーになりたいと考えている若い人』のために一文を書く事を思いつきました。

わたしがプロダクトデザイン(以前は工業デザインとかインダストリアルデザインと呼ばれていました)を仕事に選んで三十年近い歳月が経ちました。
小学校の卒業文集で、将来の夢として「カーデザイナーになりたい」と書いていました。絵を描く事が好きだったわたしが子供なりに考えた「絵の生かせる仕事」が自動車のデザインをする事だったわけです。結局カーデザイナーになることは出来ませんでしたが、とても注目を集めている重要な職業であるプロダクトデザイナーについている事をうれしく思っています。

プロダクトデザインとはなにをする仕事なのか

今であれば「携帯電話」や「小型ゲーム機」がみなさんのデザインしたいものの代表かもしれませんね。
 自動車のデザインだけでなく、家具も食器もテレビも掃除機も洗濯機も冷蔵庫も電子レンジも分かりやすくいえば「生活にまつわる製品すべて」にデザインがありデザイナーが関わっているといっても過言ではありません。プロダクトデザインのプロダクトという言葉には「量産」という意味が含まれています。ひとつふたつのものをこつこつと作り上げる手芸的なもの、また作るたびに形や色が微妙に異なるものは厳密には「プロダクト」とは呼ばれません。

大量に同じ形のものを作り出す事、そしてその「原型(マスター)」を描き形作るのがプロダクトデザインであり、その作業をする人をプロダクトデザイナーと呼んでいます。

 同じものが大量に生産される事は、本来すばらしいことです。世界中の人々が自分のデザインしたものを喜んで使われることを意味しています。あの人もこの人もそれを使って楽しんでくれる。このためにデザイナーは日々働いているともいえます。
 それは反対に、使いにくいものを作ったら多くの人に我慢と苦痛を与える事にもなるわけです。ですからデザイナーは、ものの見た目の「美しさ」をデザインするだけでなく、使う人のことやその機械の中身までよく理解してその外観を考える必要があります。ひとつの製品が出来るまでには、多くの人がその製品作りのためにかかわります。人だけでなく莫大な費用も同時にかかりますからその責任は重大です。

また優れた製品をデザインするためには、多くの人と意見をかわしちゃんとその意見を聞き考え、かたちに反映しなくてはいけません。「これはかっこいいから、いいの!」というわけにはいかないのです。
つまり「人の気持ちがわかっていないと出来ない仕事」といえるでしょう。

将来良いデザイナーになるには、今なにをすべきか

わたしが中学生だった時の話ですが、近所にあった文具店でルーズリーフファイル(片側に穴が四つから三十二穴ぐらいあいた用紙を、まとめておく側ケースのこと)を購入しましたが、使い始めて数日でファイルをとじている金具のかみ合わせが緩くなって、すぐに「ばかっ」と開いてしまうようになってしまいました。わたしはそれを見て『しょうがないなあ』と思わないで、それを作った文房具の会社に「改善案」を提案しようと思い、『ゆるくなる原因は、このツメの角度と深さが足りないのです、だからこうしたら良くなると思います』と絵と文章をはがきに書いて、会社の「お客様相談室」あてに送りました。

それから数週間して、そのファイルをつくった会社から感謝のお手紙と「がばっ」となってしまったルーズリーフファイルの新品が送られてきました。これが、わたしの「プロダクトデザイナー」の第一歩でした。
 折り畳みの傘の握るところが小さくて持ちにくいと思えば『握りと傘をしまうケースが一緒になれば便利だな』とか、スプレーの缶を上向きにすると液が手にかかるのを経験すれば『パラボラアンテナみたいなガードがつくと手がよごれないなあ』と思ったり、日々見かけるもの手にするものについて考えるようになりました。

デザイナーになるには、絵が上手だったり、数学が出来たり英語も得意というのも必要ですが、もっと重要なのは、どんなものを見ても面白く感じ、それがどうして「そうなっているのか」掘り下げる、自ら調べる、そしてその仕組みを発見する。そこで感じた事を、表にしたり、文章化して、その事実を「見える形」にする表現力がとても大切な「素養」だと思うのです。
 授業のノートをとっても「重要なポイント」がつかみやすく整理したり、毎日使っている文房具やカバンにもこだわったものを選ぶ。その基準を「好き・嫌い」や「かわいい・かわいくない」という判断だけでなく「どうしてそう思うのか」についてもちゃんと説明できるようになることも、きっと将来役に立ちます。

共感と協調

わたしが若い頃デザイナーとは芸術家で勝手気侭で世の常識にとらわれない「世の中でこれまで見た事のないものを作り出すすごい人」だと思っていました。
しかし現実にデザイナーになってみると、立場の異なる多くの人たちとの共同作業で製品がかたちになることがわかってきました。
同時にどれだけ優れたアイディアをもっていても、まわりのひとたちの共感や賛同を得られなくては、それを実現することができないということも理解しました。

自分が好きであるものをみんなが好きであるとは限りません。もっとも身近な家族の間ですら「見たいテレビ番組」が異なるように、年齢や性別によってものの見方や好みは変わってきます。ましてや育った環境が異なるひとたちの間で一緒に仕事をするわけですから、そういう好みの差が生じる事はさけられません。

ではどうやっていろいろな意見をもつ人たちに自分の考えているデザインを説明し共感して賛成してもらえるのでしょうか?
 上手に描かれたスケッチやうまくまとめられた文章を作るだけでは十分ではないのです。不思議かもしれませんが、日常のその人の生活の有り方が、とても重要になってくるのです。

清潔な服装をこころがけ、事の大きさに関係なく約束をまもる、遅刻をしない、机の上を片付け掃除をする、出会った人には朝晩のあいさつをかかさない。そんなまったく当たり前の日々の行動がまわりのひとたちの気持ちを動かすのです。『デザインの善し悪しは自分には判断がつかないけれど、信頼のおけるあの人がそう言うのなら協力してあげよう。』そういうちょっとした「人の気持ち」の積み重ねによってしんじられないぐらい大きな仕事を動かしているのです。

プロダクトデザインは、美しいかたちを作り出す「芸術」としての側面をもっていますが、それを支えているのは常識的な感覚と、人に対する細やかなこころくばりで出来ている。このことがもっともみなさんに伝えたかった事かもしれません。

わたしは今年で五十三歳になりました。みなさんからみれば途方もない年齢ですね。だけれど、デザインに対する情熱と愛情は一度も消えた事がありません。
今も毎日楽しくってしょうがありません。自分が楽しくて人に喜んでもらえるプロダクトデザインという仕事を、社会が許してくれるなら死ぬまでずっとつづけさせてもらいたいと思っています。そんな一生をかける事の出来るすてきな職業をぜひみなさんにも選んでほしいのです。

プロダクトデザイナー 秋田道夫 2006/9




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