陳情令の砂時計は、はじまりの最終回で「ほんとうのこと」に少しだけ近づけた気がした

「陳情令」という作品に心を奪われて音楽との融合性のあの世界観の虜になるのに時間は必要なかった。にも関わらず、陳情令の「本質」を指先にほんの少し触れたと思えたのは最終回間際のこと。


「初めて観る」ことの楽しさはやはり何事にも代え難い経験で感動を覚える。

なので観ていない方は、ネタバレをかいくぐりながら先入観なく観てもらいたいので。

下記は、ぜひ読まないで欲しい。



先日の金曜日0時、ドラマ陳情令の48話から50話までの最終回を観終えた。

あまりの感動に感想を1話から一緒に観て楽しんでいた母へ熱く語っていたところ「それは文章にするとさらに難しいね」の言葉に、純粋にそうだなと納得したのは、伝えることの難しさと少しだけ学んだことを文字で綴ることに対して言葉の深みを知るきっかけが出来たと感じたから。

私は、無知を自覚した。

例えば、ただ本を読むだけで理解した気になっていた物事と、実はもうひとつ。意識して言葉を拾い理解し本の世界観を捉える、捕まえることで知識をひとつずつ増やすという道が存在した。まさに、見識を広げることの扉が自分の目の前に突如として出現した。

「意識して知ること」で自分の浅はかさを受け止めながら、想いを込めて文章にしたためようと思う。


最終回を観終わったときの感想は、伏線が回収されたことと、50話のタイトル「忘羨」の着地点が素晴らしく美しく多幸感に満たされて。また、義城編から自身で関心を持って少し調べて学んだ「仏教」について踏み込んでいくと、繋がっていく知識たちは自身の衝撃とともにさまざまな歴史の奥の深さへともぐって行くことになる。

そもそもの「陳情令」という物語に惑わされていたのは私自身の存在であることにも気付いて、その面白さにあらゆる感情を上回る爽快感に包まれた。

確かな丁寧さで「愛情を込めた作品」を作り上げているすべての方々へ、改めて尊敬の念を抱いている。


”陳情” とは邪気を操る魏無羨(=魏嬰)の横笛の名で、義を通した魏嬰のカタチでもある。

笛の音や琴の音で操られ縛られる邪曲の存在に惑わされた。東贏という東の島国のエレガントな調べは、聴くものによっては不気味な音楽だったと実際の歴史を調べると存在したというのも面白い。

さらに50話で最高に面白く魅力が存分に活かされているのは、「苦しみ」は各々の環境でも霊力でもなく、音楽でもない。これらは因と縁である、すべての結果には必ず原因があるという因果によるものだが、すべては「人の言葉」が惑わしたことである点だ。


ここで、”陳情”という言葉を調べると辞書には「申し立てる、言葉をのべる」という意味がある。

実情を述べて、善処してと願うこと。

”情” とは「人間の心のはたらき、こころ、きもち、意地」の意味を持つ。

"令" は、古代において律と共に根本をなした掟、の他に「もし、たとい」ともある。


46話から48話で、魏嬰について知らないことの欠けたピースの金丹について無明の光を得た江澄と藍忘機(=藍湛)は、「ほんとうのこと」を知る。

明かりのない真っ暗闇で何も見えない「無明」とは、簡潔にすると「真理を知らないこと」である。また、人間の迷いのことを指していて、自分の経験と知識だけを頼りにして生きている人の姿を言い表してもいる。

48話から50話の観音廟で沢蕪君(=藍曦臣)は金光瑶から「ほんとうのこと」である真実を聞かされるけれど、すでに沢蕪君の心は疑念と困惑で迷いに包まれてしまっていることは、48話の「信じていいか分からぬ」50話の「阿瑶が分からない」と憔悴した沢蕪君から零れ落ちた言葉と、崩れ落ちた観音廟を見詰める背中を見れば伝わってくる"苦しみ"。

金光瑶から「貴方はおめでたすぎる」と言われたことでも分かるように沢蕪君は "迷い" にある。

「一緒に死んでください」

そう言った金光瑶は、じっと沢蕪君を見詰めていて。そうして、握る剣の手を降ろしながら目を固く瞑った沢蕪君へと笑みを携えて。

伸ばした片腕を押して突き飛ばした。

腕の使い方というのは、引くこともできるし、抱きしめることもできる。押して退けることもできるし、守ることもできる。

最期の金光瑶の義の現れである短くも長い一瞬は、儚さと強さがひかり、相対する沢蕪君との表情に一層惹きつけられる場面のひとつ。

沢蕪君には、衆生を慈しみ楽を与える慈と、衆をあわれんで苦を除く悲の意味の「抜苦与楽」と言う心を表したものは慈悲の心に繋がる。

そして、金光瑶の行動は「仁」であるとすれば、愛情であり、人を慈しみ、思いやる心。

また、「忠」の根源は、恩にある。意味は「まごころ」があり、根本には愛があり、忠の有りようは純愛に近い。 


巡り合わせなのか。43話で過去の幼き頃のお話に通じる、沢蕪君と藍湛の両親である父と母の道へと辿ってしまったことに繋がった。

沢蕪君は父と同じく「改悟」への道へと歩むのかもしれないと思わせるところもにくい演出である。

賢い方なので、すべては「理解をしている」けれど、「無明」という真実が明らかにならない暗闇の道に迷い込んだ沢蕪君は、受け止めるのにはなかなかに難しく時間を要すると想像するが、これもまた「道」というのか。


金光瑶は、すべての真実を観音様の御前で話したのだろう。魏嬰と江澄についても別のもうひとつの真実の道を伝えている。

「因果の道理」という仏教の根幹の教えがある。

善いたねは善い運命の善因善果、悪いたねは悪い運命を引き起こす悪因悪果。そして自因自果である、自分の蒔いたたねは自分が刈り取らなければならないという、お釈迦様の教えに通じる。

たねである「業」は自らの行いにある。

人生では生老病死の四苦と、さらに四つの苦である、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦があり、合わせて「四苦八苦」と呼ぶ。

その中に、求不得苦は欲しいものが手に入らない苦しみであり、五蘊盛苦は人間の体や心の欲望が適えられない苦しみ。

愛憎という親の愛情を求めながらもどこかで道を違えた金光瑶もやはり言葉によって苦しみを覚える。


48話の魏無羨が苦しそうに笑った場面で「まさか、そんなことで」の言葉は特に考えさせられる。なぜなら、それぞれの義が交差していると知っているからだ。

魏嬰は、義を通すために言葉を使った。

薛洋は、自らの義により目の見えない暁星塵に言葉で操り惑わした。

金光瑶は、義を持って言葉巧みに人の心を操った。

聶懐桑は、囚われた義でそれらすべてをうまく誘導する。


すべては「言葉」にあった。


信じ貫いた者の確かな手を知った者と。あとから知った温もりを求める者と。知るところで手を離さざるを得なかった者。

そして、もう掴めない失った慈愛の手を探し追い求めた者。

魏嬰や薛洋や金光瑶の辿った道は、ひとつ違えば交わる各々の道。

魏嬰は、藍湛という知己を得たことで救い出され、藍湛もまた魏嬰という存在を得たことで救われる。そこには、偽りのない真実という真理があった。



無明(=無知)という中で光があることの教えを少しだけ学んだ私は、仏教に始まり哲学者へ、論語なども広く浅くかじってみた。まるで連想ゲームである。知識欲とは、こうして得るのだと遅ればせながらその道を知る。


「義」にもさまざまな思想と歴史を辿っている。

陳情令は、「三教」である「儒教・仏教・道教」をうまく取り入れているのが分かる。

儒教における義は、儒教の主要な思想であり五常(仁・義・礼・智・信)のひとつで、陳情令の人物像にも反映されている。

また、古代中国の侠の世界は、強きをくじき弱気を助ける侠客という言葉があるけれど、「侠」は強きをくじき弱きを助ける勇気で横の関係を重視する。儒教の主従のような関係はないところも、角度が違って魅力を覚えるところ。

魏無羨と藍忘機の関係性や、江澄との絆。他にも存在感溢れる登場人物に惹かれてしまうのは、正義とするそれぞれの「義」が見えてくるからかもしれない。

神仙思想のある道教はウィキペディアで調べると、「仙人や神仙はいずれも自分の体内の陰と陽を完全調和して、道教の不滅の真理を悟る道教の道(タオ)を身に着けて、その神髄により仙人となることの究極の理想は、ひとつの道と成る」ことをいっている。


中国古典である老荘思想の老子と荘子の思想もある。 

荘子の思想はあるがままの無為自然を基本とし、人為を忌み嫌うものである。政治色ある老子よりも、荘子は一貫して俗世間を離れ無為の世界で展開される。

ここで印象的な言葉を知った。

荘子の第一節に、「逍遥遊」(何ものにも拘束されない全く自由の境地)とある言葉は、"随便"という名の剣を持つ魏無羨に通じるものがある。(随便:「適当に、気ままに」さらに魏嬰は「ご勝手に」とも言っていた)


いったい言葉とは、なんだろう。

言語学の起源は古代ギリシャ時代のアリストテレスといわれているようで、歴史は古くさまざまな研究がされている。

現代言語学においては、言語は「音」から生まれ、文字といった「記号」になり、人が用いる言語の「記号」がどのように体系化されているのかを分析し、記述することが重要視されたという。

意思疎通するための言葉は、経典などを文字で言葉を残していくことでさまざまに宗教は発展していくことからも文字の重要さがうかがえる。

言葉には、正しくそのままの意味と、疑うような暗示をする意味に取れる「表と裏」の面がある。

すべては「使い方」次第で道は変わっていくことを、陳情令の世界で教えられた。

視点を変えればそれぞれの「義」があるからこそ、登場人物にのめり込んで深みに嵌っていく。だからこそ哀しくも、なお愛おしい。


50話の魏嬰と江澄が印象的に映る。陳情の笛を渡す場面と、収束した観音廟の前から去っていく魏嬰の背中とそれを江澄が見詰める場面は、思わず息をのんだ。

江澄は金凌に言葉をかけられ、「魏無羨と話があったんじゃ?」と追いかけられる。

江澄のただまっすぐに魏嬰の背中を見詰めるその表情は、ひとつの山道を乗り越えたような厳かさもあり、でも懐かしむ哀愁を帯びてもいる。

江澄と視聴者だけが「ほんとうのこと」を知った場面は、苦しくて文字通り心が張り裂けそうで洪水の涙を流した。

お釈迦様は「賢者の高貴な沈黙を守った」と、時に沈黙は語ることより優れていると、真実の言葉でさえあると説いた。

また、中国の楓の紅葉文化を調べると、興隆、衰退、再興という揺れの大きな発展過程がある。

古代より楓は、過去への追憶や人生の蓄積と感情の永遠性など、文人や詩人の精神的な象徴もある。

楓の葉は厳しい霜を経験して初めて真赤に紅葉し、美しい紅葉が見られる。苦難をひとつずつ克服していくと人生の深みも増し、成長をうかがわせる。

江澄の背後に映る秋の紅葉。憧憬の眼差しや歳月の繰り返しを感じる情景は、あまりに切なくて胸が締め付けられる。



仏教の時間軸は現世の時間指向と考えられている。

そして、陳情令はファンタジーな世界観要素もあるので、ある国は冬ですぐ隣のある国は夏であると考えられるけれど、きちんと背景の意味合いが考えられているところも楽しみを見出す美しい世界観である。

ここで砂時計を調べた。

砂が落ちていく流れで時間をただ計っていると思っていたが、きちんと別の意味も含んでいるのを知った。

「現在が、未来と過去の間にあることの象徴」で、くびれた部分(現在)を見つめる。すると時間というのは上(未来)から流れてきて下(過去)へと流れてゆく、「流れ」を感じられる。(@ウィキペディア参照)


魏無羨は、「三世(さんぜ)」を生きる。

仏教では過去世、現世、来世という三つの世を人間は生き続ける三世の思想。この世は現世で、生まれる前の時間を長い過去世、死んだ後の世界を来世と呼ぶ。

悠久の過去世と悠久の来世にはさまれたほんの短い時間に「そうとも。無常ゆえ酒をくらう」と言ったいつかの魏嬰の言葉が強烈に残る。


魏嬰は「俺は向こうへ」と、藍湛は「私はこちらへ」

ふたりの山道で別れる場面は、目を奪われるほどに美しく映る。

彼岸と此岸を思い浮かべる。

苦しみから解放されたあとに辿り着く「悟りの世界」であり「理想の世界」の向こう岸を意味する「彼岸」。

彼岸の時期は昼夜の長さが同じくらいなので仏教の「中道」という"偏らずこだわらない心"に通じるともいわれる。

迷いや悩みのある私たちの生活している世界は「此岸」つまりこちらの岸、「此の岸」という。

そして。

彼岸も此岸も「同じ世界」である。向こうに渡れば今度はこちらが向こう岸になるからだ。


本家版の場面も愛情が込められたひとつの世界観であり、日本版のふたりの後日とした世界観もある。それは、論ずることもない。どちらの世界観も進む姿はふたりの義を焦点とし、美しさと進む道が丁寧なカタチで描かれている。

藍湛の「魏嬰」と呼ぶ声に振り向く魏嬰は、一等に美しい場面である。



物事を自由に考え見方を変えてみることの大切さを気付かせるための智慧を説かれる「般若心経」には、教えが凝縮してぎゅっと詰まっている。

エンディング曲。

まるで忘羨(=无羁、無羁)は、般若心経である。

正しくは般若波羅蜜多心経という。「智慧の完成」の言葉は、これがまた難しいのでざっくりに般若波羅蜜多の神髄(真言)という意味とする。

仏教の神髄である「苦しみから解放され、安らかに生きるためにはどうしたらいいのか」という、まるっと説いている経典。そして、経典には登場人物は二人いる。(慈悲深い観自在菩薩と、お釈迦様の弟子が登場人物となる)


般若心経には「色即是空 空即是色」という有名な言葉がある。

色即是空とは、この世のあらゆるものや現象は実体がないという、諸法無我を説く。

空即是色とは、実体がないことがこの世のあらゆるものや現象を形成していることで、"因縁"を説く。(あらゆる存在も因と縁によって生じること)

これは中道にも通じており「相反するものがひとつ」であるという、さまざまな存在を成り立たせているということを二つの側面から表している。

調べると、心の中には限りない迷いの世界である「色」と、お釈迦様に限りなく近い悟りの世界である「空」とがある。

「空(くう)」の意味とは、実体がないこと。唯一不変の存在はこの世にはない、ということで仏教の大事な教えのひとつになるが、あまりにも深い真理となる。

仏教はこの涅槃という苦しみから解放された後の世界を目指すために必要な考え方と方法を説かれているので、「空」を本当の理解を得たとき、涅槃の境地(ニルヴァーナ)へと辿りつくことを教えている。


忘羨(=无羁、無羁)の二人の歌唱は、1番と2番で互いへ問いかけるように重なり合うように歌っている。

魏無羨を演じる肖战と、藍忘機を演じる王一博の歌声の魅力を最大限に引き出している音楽の世界も本当に素晴らしく、曲は何度聴いても飽きは来ない。

「天涯一曲共悠扬」

この言葉に、すべてが集約されている。


ふと、ピアノの楽譜を眺めていると「4分の2拍子」となっているのを知る。

お経を唱えながら木魚を使うポクポクポクポクのリズムに近く似ている印象を持つのは、おそらく深読みだろう。

「陳情令」という作品は見方や捉え方を少し変えると、ここまで面白くなる。学べるのだということをいま実体験している。



「無為自然」と「上善如水」という2つの言葉がある。

先にも出た古代中国の哲学者である老子の言葉である。

無為自然とは、作為をせずに身を任せて天地自然のままでいるのがよい。

そして上善如水とは、「上善は水のごとし、水はよく万物を利して争わず、衆人の恵む所に処る。」

辞書には、「最高の善は水のようなものである。万物に利益をあたえながらも、他と争わず器に従って形を変え、自らは低い位置に身を置くという水の性質を、最高の善のたとえとした言葉」とある。

最上の人生の在り方とは水のようなもので、水のようにしなやかに生きることを、陳情令の魏無羨と藍忘機を通して豊かな心を養った。



ミロのヴィーナスはなぜ美しいのか。不完全の美ともいわれている。

チラリズムはなぜ欲を掻き立てられるのか。完全までの想像を掻き立てられるから。

だからこそ「ブロマンスな陳情令」は魅力されて囚われてどうしようもないのだと。ブロマンス作品の真髄をうまいほどに描かれている。

華道の「花を生けるのではなく、空間を生ける」空間芸術といわれる創造の世界にも学ぶものがある。



さて、最後に。

私は「扇子」を調べた。

中国の書「設文」に、扇の語源は「扉」の文字でトビラと読んでいた記述がある。「戸」が「羽」のように動き、扇いで風を起こすことに由来している。

紀元前の中国で用いられた「うちわ」が、日本に伝来し平安時代に折りたためる持ち運びに便利な「扇子」が発明され(当時は檜扇という)、中国からシルクロードなどへと渡り、また改良されたものが逆輸入として日本へ、という古い歴史がある。

そして、コミュニケーションツールとしていた平安時代の想いをあらわす扇子は、戦国時代では護身用の鉄扇、江戸時代には礼儀作法を重んじる武士や侍にとって命のように大事な刀と同様の存在とあった。(茶道では刀の代わりに扇子を用いたことで分かる)

扇子の用途は風をあおぐ他にさまざまにあるが、興味深いのは結界などの役割も含んだ呪具にも関係していたこと。穢れを遮る覆面の作用もあったという。


扇子に16年という歳月に想いを馳せて浮かぶのは、因果の道理にある「業」(=行い)で、原因なしには結果は生じない「因と縁」の言葉である。


「義」は人間の行動や思想などで「よい」「ただしい」とされる概念であり。

対義語には、「わるい」「よこしま」を意味する概念に「奸(かん)」とある。


真理の対義語は、「虚偽」であるということで、今回の感想の結びとする。



ここまでもしも読んでくださった方がいらっしゃいましたら、本当にありがとうございます。

自分で少し調べて学んだことをネタを削りながらも、箱にいっぱい詰め込んだ感が否めず。稚拙に文章を綴ってみると、なかなかに言葉というのは難しいと改めて感じます。

そういえば昔から自分自身が「作文」を苦手としたことを思い出すという良い経験となりました。

陳情令にはまったからこその経験は見識を広げるということで華やぎました。

さらには、原作を購入したけれども原作未読という、答え合わせをしていない新鮮さもあり、考察のような推測の粋を越えていないようななんともいえない楽しみを「陳情令の世界」を窓口にして知識を広げている真っ最中です。


何通りもあるひとつに、こういう楽しみ方もあるんだなと思っていただけると嬉しく感じるとともに。

そこに名前を付けるならば研究テーマは「陳情令の真理について」かもしれない。

もう少しだけ他にもいろいろと推測しながら楽しんでいきたいと。

陳情令の世界観の奥行きが知りたい欲求に、今日もRPGゲームのような壺や宝箱を覗いては、薬草などをゲットするように。知識をひとつひとつと獲得しながら、亀のように歩みを進めております。


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