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キャットマイムパパ

父が飼っている猫、その数三匹。
いずれも甘えん坊の撫でられ好きで、
父はいつも人差し指をあやしく動かしている。
だが娘の私は父の指に撫でられる猫が見えない。
その影すらも。
我が家の猫達は既に三匹とも天に召されているのだ。

当初猫好きだったのは母、
果てに狂い込んだのは父。
マンション九階の我が家に一匹目を飼ってきたのは母、
しかし二匹目を飼ったのは父。
三匹目を父が飼ったところで母が、
「もうこれまでよ」
と言った。
その後病で一匹死に二匹死に、
三匹目が死んだ途端に父だけに見える猫が家の中に現れた。

三匹の死後、
初めて父が猫の名前を口にしながら宙に手を泳がせた時、
私が何をしているのと尋ねたら、
「モモちゃんをだっこ」
という言葉が返って来た。
けれど父の両腕の中には空気だけ、
猫をだっこと言うには無理がある。
それにモモは他界した猫の名前だ。
愛猫を喪った悲しみの末に父の頭がおかしくなったのなら一大事、
なんとか正気に戻さねばと私は母に全てを説明した。
母はいつも使っている黒のマグカップでコーヒーを飲みながら私の話を聞き終えると、
その口から少し長めのため息を垂れ流してこう言った。

「暫くそっとしておきなさい。」

お父さんは物語を作り売っている人でしょ。
そういう人だから心の整理の為に色んな想像をしてるのよ。
見えない猫とのやりとりはきっとあの人なりの別れの儀式。
落ち着いたら止めるでしょうから、
今はそっとしときない。
そう言って母はコーヒーを音もなく飲む。
まぁ、父の妻である母がそう言うのでしたら。
父の娘である私も静観を決め込む事に致しましょう。

その後の父はと言うと、
飯時には分け前を狙う見えない猫を両手でどかし、
物語執筆時には乗ってくる見えない猫の重さで肩が下がり、
テレビの前で胡坐をかけば足の間に入ってくる見えない猫の喉を撫でる。
連日父の周りだけが猫達の戯れにより賑やかで、
私と母の所は静かなもの。
見えない猫達は父にだけ構い、
私と母には屁の一つも吹っかけてきやしない。
けれどこれは別れの儀式、そう父の、別れの儀式。
私達がどうのこうのと言う事ではない。
父の心が済むまで見守ろう、と黙っていたら、
早いものでもうかれこれ六年が過ぎた。

だがその年月の間に父の別れの儀式は、
今や見えない猫とのパントマイムと化した。
私は心でキャットマイムと呼ぶ。
見えない猫が父の腕の中から這い出す仕草などは見事なもので、
そこに本当に猫が居るのではないかと信じそうになる。

しかし、見えない猫達は、本当に猫なのだろうか。
当初こそ猫の世話の全てを変わらずこなしていた父。
猫皿の減らない水を入れ替え、
汚れないトイレの処理をし、
腐るだけのキャットフードも欠かさなかった。
だがこの六年の間にその習慣は一つ欠け二つ欠け、三つ欠けた今、
猫達は父にただすり寄るだけの生き物に成り果てている。
飯も食わない、水も飲まない、
うんこの一つもひりださない。
挙句は影も形も見当たらない。
だが生きている、父の心の中では。
しかし、母の心の中ではどうだっただろうか。

母は父と違って仕事であまり家に居ない人だが、
家に居る時には決まって良い顔はしなかった。
要を成さなくなった猫の用具に対してである。
私も母の娘だ、母の顔を見ればうっすら悟れる。
意味の無い猫の皿やトイレを邪魔だと思っていただろう。
なにせ決して広いとは言えない我が家である。
その母の目を気にしたからか、
それとも量が減らない水や餌が『猫』の存在を脅かしたのか、
いつの間にか父は自分の書斎に猫の用具一式を仕舞い込んでいた。
夫婦関係が見えぬ猫達の食事とうんこを消したのだ。

三匹の猫達は今、飯も食わずに便も出ない。
かつてはカーペットの上に転がっていた毛玉も懐かしい。
頻繁にコロコロしていた粘着ローラーもすっかり埃を被ってしまい、
猫特有の臭いも霞の如くどこに消えたか。
生傷の絶えなかった父の指も今はすっかり綺麗になった。
この家の中に猫が住んでいると言われても、
もう誰も信じないだろう。
だが姿の見えない三匹が猫としての生態を一つずつ失っていくにつれ、
父が三匹と触れ合う時間は増えていった。

変化が起きたのは猫や父だけではない、
母もまた変わった。
二年前までは父のキャットマイムに良い顔をしなかった母。
ちょっとアナタそんな事はもう止めて、見てるこっちがおかしくなっちゃう。
とは言わない母だったが、
そんな言葉がいつ喉から飛び出してもおかしくない雰囲気があった。
娘の私にはキッチリ判っていた。
だが二年前にその雰囲気がパッタリと消え失せる。
母から見えない猫に対する棘が消えた。
私もおや?と思ったものだ。
けれど家庭不和の要因の一つが無くなった事が嬉しくて、
特に深くは考えなかった。

家庭の空気が少し変わった後、
ある時私は父の心の中に入る事を試みて、
父が座る横で見えない猫の背中を撫でるように手を動かした事がある。
もし知りたがりの誰かが行動の理由を求めるならば、
それは『父が私の家族だから』。
母と父と私。
家族の中に誰からも理解されない人物がいるとしたら、
その人間はさぞ孤独ではないか。
それを放っておけるような教育は父と母から受けなかったし、
私もなんらかの原因で孤独になった場合に放っておかれたくはない。
何故父が見えない猫を何年も撫で続けるのか。
それを言葉で聞くより自分も体験する方が早いと思ったまでだ。

とはいえ見えない猫を撫でるのは初めての事だった。
父の視界に入る位置取りで右手を伸ばし、
そこに無い筈の猫の背中を撫でるフリをしてみた。
かつては私の指の間をふわふわの毛が隙間無く走ったものだが、
今は虚空が、ただぬるい。
しかしこれで父の心が知れるならと、
暫く手を左右に動かした。
右に左に、左に右に。
そうやって虚空に手を泳がせていると心の中で声が聞こえた。

「おい、お前、手付きがぎこちないぞ。
 お前は猫を撫でてない、
 ただ撫でてるフリをしているだけだ。」

その声にハッとして父の方を見やると、
父もまた私の方を見ていた。
思わず宙を行き来していた手が止まる。
本当にそこに猫がいたなら吃驚して逃げただろう。

「なにやってんだ」

と父。

「え、猫撫でてた」

と私。すると父がこう言う。

「猫、そこに居ないだろ」

父のその声の調子は咎めるでもない、諭すでもない。
まるで幼い子供に「そっちに行ったら危ないよ」とでも言うように。
流石に父のその言葉を聞いた私は吃驚した。
猫、そこに居ないだろ、だと。
いや父よ、あなたの周りにも居ないだろ。

だが父の言う通りだ、私の手の先に猫は居なかった。
ただあったのは虚空、そして父への期待。
見えない猫を撫でようとした私に、
父が心の内の何かを教えてくれないかという打算があった。
しかし何もかもが失敗に終わる。
私がした何がいけなかったんだろうか。
居ないと思いながらしたのが間違いだったのか。
本当にそこに猫がいると信じて撫でれば良かったのか。
でもそこに猫はいないんだもん、私には見えないもの。
そもそも父はこの事柄に関して仲間を作る気など無いのだろうか。
だろうか、だったのか、のか、のか。
仮定の言葉ばかりが降り積もる。
その答え合わせが出来る父はすぐそこに居るのに、
私は全ての答えを聞くのが怖かった。
尋ねる事で父の飼う猫の存在が一気に消え去り、
父の心が壊れてしまっても私にはどうする事もできない、
当時高校生だった私には責任が取れる筈も無い。

「ごめん」

私はその一言をドロリと床に零し、
敗軍の将さながらその場を立ち去った。

時は今に追いつき、私は大学に無事入学。
父は未だに日課のキャットマイムを怠った事が無い。

そんなある夏、
調子の悪い冷房を新調する為に工事業者が我が家に入った。

配管も古くなっているから見てみましょうと、
業者が窓を開けたのが運の尽き。
父が「あっ」と声を上げ一人窓の方へと走り出した。
いや一人ではない、
きっと父の猫が開いた窓からベランダへ出たのだ。
それをきっと父は追いかけていた。
父がそんなに顔色を変えているのを見るのは初めてだ。
だがなんて言えば良い?窓の外には既に業者。
「見えない猫が居るから気を付けて下さい!」
とでも言おうものならキョトンとされる。
かといって他に理由も瞬時に浮かばず、
こちらも慌てていると父の身体はあっという間にベランダに。
しかし運が良かった、
作業をしている業者とは反対側に父の身体が向かう。
業者は黙々と作業を続けるではないか。
このまま事が済めばいい、と思っていたら、

「サヨちゃん、サヨちゃーん!」

と父が猫の名前を呼ぶ声が響き渡る。
恐らく仕切りの下をくぐって隣部屋のベランダまで行ったのだろうが、
傍から見れば父はただ挙動がおかしいオッサン。
気になってチラと業者を見たがプロ根性なのか幸運な事に黙々と仕事を続けている。
だが内心何を思われているか知れたものではない。
ああお父さん、もう止めてよ。
いよいよ私も辛抱堪らず窓の方へと駆け寄ると、
それまで尻しか見せてなかった父が顔をいきなり覗かせた。

「サヨ!」

父の視線の動き、声、顔色、全てが物語る。
見えない猫、サヨがきっと父の身体をかいくぐり、
また開けっぱなしの窓から部屋の中へと戻ってきたに違いない。

その時不思議な事が起きた。
確かに見えない筈の猫の姿を私も『感じた』のだ。
父の視線の先にいたずらっ子な白黒ブチ柄の猫が走っている。
今窓枠をくぐり、カーペットの上に乗り、よし、今なら私の手が届く、と、
手を伸ばして、そのまま悪戯っ子を咎めるように『猫』を抱き上げた。

「ああ、サヨ」

するとベランダから戻った父が私の両手に、
いや、両手の中にあるサヨに駆け寄った。

「ダメだろ危ない事しちゃ、めっ!」

父の手が伸び、
私の両手の下から掬い上げるように動き、
ああ、そうだ、
今確かに私と父の間には猫が居る。
例え幻だとしても、猫がいる。

「書斎に入れときなよ」

と私が言うと、

「ああ、ちょっと行ってくるな」

と父が猫を抱きかかえる格好でいそいそと部屋を出て行った。
その後つつがなくエアコンの取り換えは終わり、
いよいよ業者が帰る段取りで、

「すいません、途中でうちの猫が」

等とは言わなかった。言う必要も無かった。

「さっきはサヨ捕まえてくれてありがとな」

業者を見送りドアが閉まると私の隣に立つ父がそう言った。
言葉が通い、父の触れられなかった世界に今、
私と言う存在が許された証でもあった。

「うん」

私はそう一言言うのが精一杯で、
にやけそうになる頬を必死で我慢した。
もう二十歳も超えている。
父の前で笑顔など恥ずかしくて見せられない。
だがこれだけはハッキリ言える。
ウチの家庭で娘と父の関係は良好だ。極めて良好だ。
だがそれが面白くないのか、たまに母が意地悪な事を言うようになった。
この前など、父の墓参りに行くよと言うのだ。
三回忌だからと悪い冗談を言って。

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