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恋と鴉(終編3:完結話)

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床一面に敷き詰められた赤色の絨毯は、
素直に『赤』と断ずるには少し黒の混ざりが強く、
まるで殺人現場の血の染みが抜けない色のようだ。

興味本位で自分の人差し指をそっと差し入れてみると、
爪の全てが隠れてしまうかと思う程の厚い絨毯だった。
両足で立っても簡単には靴が沈まない。
長年この会場に訪れた数々の人物達の重さを、
この絨毯は味わっている、知っている。
光栄な事に本日、俺と柴田の重さも、
その記憶に足される事となった。

今日はいよいよ、
川口賞の授賞式、その当日。

従妹の結婚式以来袖に腕を通さなかった礼服に、
明るめの青に染まったネクタイを締めるのも久しぶり。
少し水気を失った革靴もそろそろ買い替え時か、
いつもより念入りに髭を剃り込んだ顎をさすると、
こんなに艶やかだったかと思う程に指が滑る。

昨晩はおいそれと夢に運んでくれなかった枕を留守番に、
慌てて履いてきた黒の靴下は、
実は左右の長さが合ってない。
大丈夫だこんなの、誰が俺のズボンを捲るでも無し。
靴下の履き違えなんて些細な事だと知っている。
そう、今日壇上で川口賞を受賞をする、
という大役が待っている柴田に比べれば。

控室として用意された一室で、
式の段取りの打ち合わせが行われていた。
その渦中の柴田は俺の小学生からの友人で、
今まで見た事がない程緊張しているのがよく判る。

あれの次に、これをして、
これの次に、あれをする。
段取りの確認をする柴田は確かに緊張しているが、
それでも極力落ち着こうと努力しているのは、
小学校時代からの友人である、俺しか知らない。

いや、そりゃそうよ。

こんなでっかいホテル、
エスカレーターやらエレベータ―やら、
他にも照明、音響、映像機器、
壊れたらお金も手間も大変な事になる物が揃ってるんだ。
それで電難を発して全部ぶっ壊してみろ、
そりゃあお前……考えたくも無い。

考えたくも無いので事前に俺は柴田に何度もこう話した。

いいか、柴田。よく聞け。
多くの人間が集まる会場でお前はもてはやされる訳だが、
その殆どがこれまで全然接触した事がない人間で、
そして恐らくこれからの人生にも大して関わって来ない人間だ。
その時にだけ出会ってすれ違うだけの人間なら、
どんなヘマこいて醜態を見せても、
今後のお前の人生になんら問題はない。

いいか、柴田。ほんの数分だ。
お前が壇上で賞をもらって何かスピーチで喋るのは、
たった、ほんの数分だ。
別に世界征服をする悪の親玉を説得する訳じゃない。
賞をくれてありがとうって、それをちょっとお洒落に言うだけだ。
お前がうまく言えなくたって、言葉を噛んだって、
世界が破滅する訳でもないしお前の腕が切り落とされる訳じゃない。
きっと、聞いてる皆がちょっと笑うだけだ。それがなんだ、
物書きになる夢を諦め筆を折る屈辱に比べれば、それがなんだ。
お前は信念を貫き通したんだ。
それがちょっと笑われるだけなんて、
そんなの、笑ったやつらも明日には忘れてる。
ほんの数分だ。カップ麺を二つ、多くても三つ作る位の時間だ。
そんなのあっと言う間だろ柴田、なぁ。
なに?お前、今までカップ麺を食べた事がない?
おま、本当にそれ言ってんのか?

いいか、柴田、式の当日だけだ。
次の日からはまた何でもない日が続く。
当日だけ、ちょっと変わった事をするだけだ。
別に戦争に行く訳でも洞窟に閉じ込められに行く訳でもない。
ただ、褒められに行くんだ。
ただ人間はお祭り事が好きだから、
大げさにお前の事を祝いたいだけさ。
かってに大げさにやらせとけば良いんだ、
お前はさも、ふーん、それで?と、
涼しい顔をしとけば良いのさ。

そう、なんでも無い、何でもない。
今までの努力がただ、お前に返ってくるだけさ。

式本番に電難を発動させてなるものかと、
何度も何度も言って聞かせた。
柴田にも何度も頷かせた。
もう判ったと言われてもまだ聞かせた。
途中、俺はなにかの教祖の素質があるのではと思う程、
柴田に「ただ褒められにいくだけ」と信じ込ませた。

事実、式会場で出会う人間の何人が、
その後の柴田の人生でまた出会うのだろうか、
柴田と一緒に酒を飲んだり、料理を食べたりするだろうか。
そう、ほとんどの人間がただたまたま出会い、
そしてすれ違っていくだけ。
気にするな柴田、すれ違って行くだけの人達なんだ。

「でも」

俺が式当日大惨事を起こさぬように何回も説いている中、
一度だけ柴田がこんな事を言った。

「佐々岡さんが来る」
「あー?佐々岡?そりゃ来るだろお前が呼んだんだから……、
 ――あっ」

頭の中で点と点が繋がり、線となる。
なんて言葉を使える程洒落た人間じゃないのは俺も百も承知。
だがこの時ばかりは許して欲しい、
一瞬にして気が付いた自分にも惚れ惚れした程だから。

かの佐々岡女子は長年柴田のきったない字を読み解き、
その原稿の清書を行ってきただけでなく、
何度も賞に落選した柴田を励まし続けた聖人である。
異論は認めない、俺が嫌になるほど苦戦した、
かの『柴田文字』の解読を何年もし続けたのだから聖人に値する。
その聖人に、柴田は恋をしている。
本人から直に聞いてはいないのだが、
いや、惚れてないとおかしいもんよ。
俺が柴田なら惚れてる自信がある。

その佐々岡を式に呼んでる。
即ち惚れてる女を自分の晴れ舞台に呼んでると言う事は。

「佐々岡さんの見てる前でトチったら俺――」

と両手で頭を抱え込む柴田。

柴田も男だ。
惚れた女の前で恰好悪い姿なんて見せたくないだろう。
晴れ舞台、惚れた女、二つの要素が緊張具合を跳ね上げる。
これは会場ホテルの全機器破損も免れないか、
とも思いもしたが、名案が浮かんだ。

「柴田、お前は長年、佐々岡に原稿を送り続けたんだよな」
「そうだよ」
「あのクソきったない字で書かれた原稿を」
「う……ああ、その通りだよ」
「佐々岡がもう嫌だと一度でも言ったか」
「いや、言わなかった。いつも励ましてくれたよ」
「そうだろ?」
「そうだよ」
「いや、そうだよじゃねぇよ。
 お前は何回も何回も送ったから麻痺したかも知れないけどな、
 佐々岡の方は何度もお前の地獄のように汚い字を見てきたんだよ、
 あんな小学生でも書かない汚い字をよ。」
「……いや、まぁ……そうだよ」
「カチンときたろ?そうなんだよ。
 佐々岡はとっくの昔にお前の恥ずかしい部分を何度も見てんの。
 お前もお前で何度も何度も送ってるんだよ。
 でも佐々岡は一度でもお前の汚い字に文句を言ったか?
 言わなかったんだろ、だからお前も送り続けたんだろ。
 その佐々岡が壇上でトチるお前を見たとて今更なにか思うか?
 お前の汚い字に何年も付き合い続けてくれた佐々岡に、
 お前の方は微塵の信頼も無いのかよ。
 たかが1日醜態晒したくらいで、
 お前の事を見限るような女かよ、違うだろ?
 だから今までお前の世話してくれてたんだろうが!
 ――違うか?」

少し黙りこくったあと、
柴田の口から聞こえた言葉は「違わない」だった。

そうだ、それで良いんだ。
これで川口賞の授賞式後も、
ホテルの機材諸々は末永く元気に働き続けるだろう――。

と思いながら迎えた式当日だが、
やはり柴田はどこか落ち着かない。
だが判りきっていた事だ、こんな大舞台に緊張しない方がおかしい。
その加減を多少なりとも抑制出来れば、というだけの話なのだから。

それにしても柴田は、

「佐々岡さん来た?まだ来てないかな?」

とうるさい。
招待の連絡には「行く」の返事だったので佐々岡は来る筈だが、
時間がジリジリ迫ってもなかなか式場に姿を現さない。
いや、寧ろ来ない方が柴田の緊張の為かとも思うが、
それは流石に可哀想なので、こちらも「あれ?」と気を揉み始める。

佐々岡のやつめ、道に迷ってんのか。
この高度情報化社会の世の中で、どの道を迷うんだ。
柴田みたいに電難じゃあるまいし。
ソワつきながら会場周辺まで出歩いたりしてみたが、
まだ佐々岡の姿はどこにも見えない。
まさか来ないなんて事はないだろうが。

少し焦り出す感情の隣で、
また別の何かが俺の頭の中で引っ掛かっていた。
それは昨日今日のひっかかりではない。
もっと前から何かがおかしいと感じていたような。

もういよいよ式は始まってしまうぞという時に、
エスカレーターを上がってくる女性の姿があった。
女の後頭部は見慣れなければどれも似たり寄ったりだが、
上がり切った振り返り顔を見ると、それは佐々岡だった。
思わず駆け寄る足に同調して顔もほころぶのは仕方ない。
おい、事故にでも遭ったのかと思ったよ。
そう声をかけると、

「そんなギリギリだった?ごめんね」

と涼しい顔で佐々岡は言ってくれる。
こんなクールなキャラだったっけ佐々岡は。
まぁ今更そんなのどうでも良い、
もう式は最初の方が今にも始まりそうだ。
そう佐々岡を急かして会場のドアを開けると、
今まさに最初の挨拶が始まると言う場面だった。

目の前の静寂の中、
一つだけ通る司会の男性の声を聞きながら感慨にふける。
柴田に手紙を送ったあの日、子供の頃に一緒に遊んだあの日。
思わずケータイ越しに怒鳴ったあの日、バーベキューのあの日。
時間軸もごちゃまぜに過去の思い出が脳裏に巡るなか、
ついに今日の主役が壇上にあがった。

照明に照らされ背後の金屏風が鈍く煌くのは日本の伝統なのだろうか。
まるでその金屏風に光が全部吸収されているのか、
緊張で顔まで暗く見えそうな柴田だったが、
こちらが心配するよりも落ち着いた声で喋り始めた。

「正直、今、ちょっとトイレに行きたいです。」

その柴田の声に会場に一瞬笑いが沸く。
柴田なりの緊張のほぐしなのだろうか。
少し笑いが引くのを待つと、柴田が言葉を継いだ。

「えーあの、この度、
 こんなにも、素晴らしい賞を頂けると言う――」

会場の誰もが柴田の声に耳を傾け、
微動だにせず清聴する様はつい少し前までは考えられなかった。
電難体質で大学進学を諦め早々に働きだし、
夢を持って書き始めたであろう作品は字が汚くて読めたものじゃなく、
そんな様々な困難を押しのけて、柴田この場に立っていると思うと、
他人ながら目頭が熱くなってくる。

柴田も事前に洗脳(他の言い方が思い浮かばない)した甲斐もあり、
電難を発動する程の緊張に襲われる事なく順調に話し続ける。
良かったな柴田、きっと今俺の横に居る佐々岡も、
お前の晴れ姿を喜んでいるよ、
と気配で佐々岡の様子もうかがってみる。
何せ長年『解読』の世話をしていた身だから、
本日の柴田の授賞式に色々思う事もあるだろう、などと、
勝手に柴田を共に支えた仲間として佐々岡に温かい想いを抱いていたら。

「柴田君、運が良かったわね」

という声がどこからともなく鼓膜を揺らした。
誰だ、誰の声だ。そう思って首を回すと、
そそくさと俺の横から姿を消した佐々岡が、
今まさに会場のドアに手をかけている。

「いや、おい佐々岡、」

まだ柴田がしゃべってんぞ。
の、声が出る前に佐々岡はドアの向こうに消えてしまった。
会場から出て行ってしまったのだ。

あっけにとられた。どういうことだ。
さっきの「運が良かったわね」も、お前の言葉か佐々岡。

突然思いもしない出来事だった。
長年柴田を支えたあの佐々岡が、
ギリギリに来たと思ったら、もう帰る、だと?
それも柴田のスピーチの途中で?
ちょっとどうした、何があったんだ。

「おい佐々岡、」

俺も慌てて外に出た佐々岡を追ってドアをくぐる。

「なによ」
「あ、ごめん――トイレだったか?
 途中でいきなり出て行くから驚いて、すまん」
「いや、もう帰るわ」
「    は?」
「アンタよ。アンタ、余計な事してくれたわね」

余計な事って、なんだ。
俺は確かに長年柴田に触れずにいたが、
でもこの本の一件で尽力した、それも誠実に、という自負がある。
確かにイライラが頂点に達して怒鳴った事はあったが、
余計な事だと?一体この女何を言ってるんだ。

ドアの分厚さは伊達ではないらしい。
会場の中の柴田の声はドアが重々しく閉まると同時に、
ぷっつりと聞こえなくなった。

「私も柴田君の本を読んだわ。
 あんたも読んだでしょ?」
「はぁ、お前……当たり前だろ。
 俺が解読して出版会議にかけたんだ。」
「読んでみたら凄い物語だったから、でしょ。」
「もちろんだ、読んで、これは世に出さなきゃ、って思ったから」
「そう思う程凄い物語だったんでしょ。
 何とも思わなかったの?」
「何とも思わなかったって……お前何言ってんだ?」
「それ以前に柴田君が作った物語は、
 同じように面白く無かったのかって。
 何も疑問に思わなかったのかって聞いてんの」

くくっ、と、
まるで頭の中に知らずに掛かった釣り針が、
獲物の魚を引きずるように暴れ、脳をかき回す感覚が走る。
この人生、味わった事の無い感覚が、俺を襲う。

「本を読んで、相変わらず凄い物語を書くな、と思ったわ。
 じゃあ過去の物語は何故一つも何かの賞を取らなかったの?
 そんなこと、考えた事なかったの?
 もし思った事があるなら、私はその答えを知ってるわ。
 これまでの柴田君は運が無かったからよ。」
「お前、さっきも運がどうとかって、
 運が良かったって……、
 いや違うだろ、柴田は実力で賞を勝ち取ったんだ」
「何言ってんの、過去の柴田君の作品もどれも凄かったわ、
 どれもどこかの賞を余裕で取るくらいにはね。
 今回の本はアンタが編集したって聞いたけど、
 実のところ、そんなに手を加える部分はなかったんじゃない?
 そうでしょう、柴田君の文章能力は異常なほどだもの」
「……!?おまえ?」
「でもじゃあ何故今まで受賞しなかったか?
 それは運が悪かったからよ……。」

本日の授賞式にお集まりの皆様方。
その皆様が式場に集まり、
この会場横の廊下なんぞには誰も出てくる筈も無く、
ただ一人の女の声が染み渡り、
ただ一人の男の声が震えて枯れる。

だが、女の方がもう用は無いとばかりに歩き出した。
エスカレーターへ向かうのだろう。
女が進んだ道の角を曲がるのを逃がさぬとばかり、
男も赤黒い絨毯の上、靴音を鳴らす。
それはそれは静かな廊下に絨毯の上とは言え、
二人の靴音が絡み合う。

「待てやお前!」

と男が叫ぶと、

「あんたが余計な事しなかったら全部これまで通りだった!」

と女も叫び返す。
角を曲がり、いよいよ会場の音は聞こえない。

「私はねぇ、御覧のとおりソコソコな顔面偏差値で……、
 成績もそこそこ、運動もそこそこ、
 子供の頃から思ってたわ、
 きっとこのままそこそこの大学に入って、
 そこそこの会社でオーエルやって、
 そこそこの男と結婚してそこそこの人生送るんだって。」

道の先にはエスカレーターが。
その途中にトイレの記号看板がつつましやかに光る。

「そこに、柴田君よ――。
 読むのは大変だったけど、
 読んだら凄い物語だったわ。
 天才だと思った。こんな物語を書けるなんて、と。
 興奮したわ、これはこの世の多くの人間が読むべきよって。
 でも思い出したの。
 あの時、バーベキュー、
 私以外は字の汚さに誰も読み続けようとしなかったわよね。
 もし――柴田君の字を解読した私がこの原稿を出さなかったら、
 この天才は、知らずにコンテストに落ちるんじゃない?って。」
「   今まで全部、出さなかったのか?」
「……当然その最初のコンテストの受賞欄に柴田君の名前は無かった。
 そりゃそうよ、原稿を預かってる私が出してないんだもの。
 でも雑誌のその受賞欄を見て気持ち良かったわ。
 今までテストで一番をとる人や運動でトップの人を羨ましいと思ってた。
 どうせ私はどうやったって全てにおいてそこそこだからね。
 でも!その私が!わかる?
 柴田君の天才性を、潰したのよ……!この、そこそこの、私が!
 ……手紙を送ったわ、柴田君に。
 今回のコンテスト落ちて残念だったね、
 でも他のコンテストがあるよ、また頑張ってみようよ、って。
 柴田君の物語はね、純粋に面白かったから、また読みたかった。
 それに知りたかったの、
 天才が必死にかじりついてた物事を諦める時って、
 どんなふうになるんだろうってね。」

己(おのれ)の内に眠る、
予め備わった感情の実態を、
人間は正確に把握していない。

例えばマンガで。
例えばテレビで。
情熱的な場面で時折見せられるその『殺意』とやらは、
所詮『見ている』だけなのであって、
実際に心に宿した時、
こんなにも静けさが訪れるとは、およその人間は知らない。

「殺したい」という意識以外、
心の中が静まり返るとは、
俺はこれまでの人生で、知らなかった。

本当に誰かを殺したい時、こんな心になるとは、
今まで「これが殺意だ」と思っていた感情は殺意じゃなかった。
思い描いていたあんな生ぬるいものじゃ、

なかった。

俺は人生で初めて、真の『殺意』を知った。

「てめぇ……もうこれ以上なにも言わずにこのまま帰れ。
 じゃないとこの場でお前を、俺が殺す。」
「アンタが余計なことしなけりゃ。
 言ってる意味わかった?
 これまでの柴田君は『運悪く』私に捕まってたから受賞出来なかったの。
 天才の柴田君が、何やってもそこそこの私に邪魔されてね。
 でも今回、『運良く』!アンタとつるんだから、受賞したのよ。
 世の中なんて運よ、運。
 私だって頑張ってみたけど運が足りず、
 この『そこそこ』まみれの人生よ。
 柴田君も一緒に引きずっていきたかったけど、ここまでみたいね。
 壇上で喋ってる柴田君を見て、諦めがついたわ。」
「ふざけんなよお前。
 運だと?柴田の人生が?運だと?
 柴田は自分の理想を諦めなかったから今のあいつになったんだよ。
 そこそこの人生だと?頑張ってみたけど?笑わせんなお前、
 自分で言ったじゃねぇか、子供の頃から思ってたって。
 お前の人生、子供の頃から思ってた通りになっただけだろ!
 そこそこの大学、そこそこの会社、そこそこの結婚?
 そこまでは知らねえがきっとそうなるに決まってら、
 お前は勝手に自分の人生決めつけて、
 信念と呼べる程の努力しなかっただけだ!これからもきっとな!
 柴田はなぁ、アイツはなぁ……あいつはずっと信じてたんだよ、
 何かの賞取って、お前をその晴れ舞台に呼ぶって。
 俺が柴田に川口賞受賞を伝えた時の事教えてやろうか……?
 身内も呼んでいいかって言ったあと、
 佐々岡も呼んで良いかなって言ったんだよ。
 そこまで聞いて判ったぜ、身内って、お前の事だって。
 何年も解読してくれてたお前の事だって。
 それがお前こんな……はぁ……お前もう帰れ。
 あと一分同じ空間に居たらマジで殺しちまう」
「柴田君、私の事好きだったんでしょ」
「……多分、いや、そうだよ。
 お前がきっと一番判ってんだろうがよ」
「そうね。でも私は別に好きじゃなかったわ。
 でも気分良かったわ、
 天才がそこそこの……っ、……私に惚れてるなんてね。」

そう言った刹那、佐々岡の瞼が大きく開いた。
その目は俺を見ているのではない、その裏、この廊下の根元。
なんだ、と思って振り向くと、
分厚い上等の絨毯が、柴田の靴音を殺していた。
普通に歩いてきたであろう、柴田の靴音を。

「いやぁ……」

着慣れない礼服に身を包んだ柴田が、
まるで何かそそうをしでかした子供の様に頭を掻いた。

「トイレ、事前にちゃんと行っとけばよかった。
 スピーチのあとトイレ行きたくて、
 壇上からそのまま駆け下りたら笑われてさ。」

神様、恨むぜ。
どうして、こんな状況を誘うんだ。
あんたは神だが、悪魔だ。

「佐々岡さん、いまの話」
「全部聞こえてた?そこの角で。全部本当よ、安心して」
「……ほんとうに、ほんとう?」
「柴田君に手紙書くの、私、楽しかった。
 がんばって書いたよいつも。また頑張ろうって。
 そうしたら柴田君、また凄い物語書いて送ってくれるんだもの。
 私が応募に出さないとも知らずに。
 いつ気付くかな、まだ大丈夫かな、
 怪しまれないようにちゃんと励まさないとって、ドキドキしてた。」

恐らくその時、
俺は本当の殺意の頂点を知った。
全身の筋肉が動かそうとした訳でもなく動き、
足が、腕が、腰が、腿(もも)が、
ただ目の前の佐々岡の息の根を止める為に爆発した。

だが時を同じく、辺りに大蛇が鋭く駆け抜ける様な音が唸った。
じゃああ、とも、じゅらあああとも、
まるで蛇の蛇腹が辺りをこすり抜けるような音で、
それが辺り一面を駆け抜けるのが早いか、
一斉に照明が落ちた。

いや違う。
電気が落ちた。
全てだ。
この施設全ての、いや、
この地域一帯の電力が、落ちた。

「佐々岡さん」

それが暗闇で聞こえた柴田の声だった。

次の瞬間佐々岡の頭上の照明が火花を散らし、
青白い稲妻が佐々岡の身体を頭から足の先まで貫いた。
太い稲妻だった。科学の実験で見るような細長い稲妻ではない。
佐々岡の身体をすっぽり覆う程の太い稲妻が轟音と共に現れ、
その光が佐々岡の身体が焼け焦げる一瞬を見せた。

稲妻の後の数秒、あたりは暗闇に戻ったが、
テロテロ、という蛍光灯に電気が戻る音がした後、
全ての電気は元に戻った。
佐々岡の頭上の照明以外は。

佐々岡の頭上にあった照明は砕け黒く焼け焦げ、
もう取り換えないといけないのは素人でも判った。
照明は取り換えでなんとかなるだろうが、
佐々岡の身体は、もう替えが利かないだろう。
いや、取り換える必要もない。
もう、命すら残っているようには見えない佐々岡の身体は、
あのバーベキューの日に見た、潰れた鴉のように、
黒焦げになった身体の四肢が絨毯の上で踊っていた。

それを見下ろす俺も、柴田も、
静かに目を細めるだけだった。

その日、地域一帯を襲った停電騒ぎの原因は不明のまま、
とあるホテルで起こった感電死傷事故は、事故のまま扱われた。

無理もない。
この世に電子機器に影響を与える人間が誰もいるとは思わないだろうし、
それを知っていたとしても、誰もそれを真剣に説明しようとは思わない。
この感電死傷事故はそのまま記録として封印され、
その後、柴田光司は日本を代表する名作家として名を馳せた。

俺は変わらず柴田の汚い字の原稿を解読する人生だったが、
あの日以来、柴田の原稿で、
潰れた鴉の様なあの文字を見る事は二度と無かった。

かつて佐々岡が一番最初に読み解いた、あの文字を。

お楽しみ頂けたでしょうか。もし貴方の貴重な資産からサポートを頂けるならもっと沢山のオハナシが作れるようになります。