S電工でのお仕事その1
無職っていうとなんかネガティブな印象を受けるので(別に受けてもいいけど)、フリーになったといいましょうか笑
約25年間会社員生活をしてきて、完全に定職に就かない状況はいまが初めてです。転職が二回あるので、そのタイミングで1ヶ月間ほど仕事をしなかった時期はあります。ただし次の会社を決めてから退職したので、それは少し長い休暇を取ったという感じでした。それでは完全フリー記念、そして自分の仕事の棚卸的な意味も込めて、今までやってきた仕事を紹介しましょう。
大学院を物理学専攻で卒業して就職したのはS電工でした。こちらの昭和電工(もう伏字にしないで書いちゃう笑)はいわゆる本社採用で、全体研修後に千葉にあるハードディスク(HD)工場へ配属となりました。そこでHDの開発、評価、生産管理などエンジニアとして働いたのです。
このHD工場が今でいう所のブラックな職場でしたー。とにかく仕事量が多くて、残業残業また残業。週休2日制と聞いていたのに、週末土日のどちらかは大てい出勤です。月に残業100時間以上で代休も消化できず、とにかく働きづめです。大学を卒業間際に結婚したので(いわゆる学生結婚)、私は新入社員のくせに新婚だったんですが、ぜんぜん家に帰れません。世間でいう大型連休とやらも、入社したいちばん最初の5月GWがS電工での最後の連休でした。
もう6月くらいには会社を辞めたいと泣き言をいってましたね(このヘタレ具合笑)。夏に大学の同級生にあった時に近況報告をしたら、誰もそんな残業だらけの職場で働いてないんですよ。なんで自分だけがこんな目に合うのか、仕事には夢も希望もなかったです。ただ扶養家族はいるし翌年には子供もできたので、なんとか3年間は頑張って仕事を続けようと、そう思いました。
ところで、なんで3年だったのでしょうか。理由は大きく2つありました。
ひとつめ:実は大学在学中にS電工の奨学金制度というのを利用してまして、その返済義務を免除されるのが3年間の勤務だったのです。3年以内に辞めてしまうと、奨学金を返済しないといけない!これは当時は無視できない金額でした。
ふたつめ:私は1995年に就職したので3年後といえば1998年です。その年にはフランスでサッカーW杯が開催されるのでした。日本はいわゆる「ドーハの悲劇」で1994年のW杯出場を逃してましたが、次のフランス大会は出るだろうと。いや、仮に日本が出場しなくても、どうせ辞めるのならフランスW杯のタイミングで辞めて、1ヶ月くらい観戦旅行をしようじゃないかと、そう決意しました。
とはいえその決めた時点で辞めるまでまだ2年半以上もあります。なのでその辞めるまでの期間は、自分にとって仕事とは何なのか。人生にとって一番大切なものは何なのか。ひたすら自問自答を繰り返す日々でした。疲れ切っているのに、苦しくて眠れない日がたくさんありました。
職場には仕事をするうえで尊敬できる人はたくさんいます。仕事に取り組む姿勢がカッコいいな、こんな風に仕事できる人になりたいな、と憧れる先輩社員は何人かいました。しかし私生活も含めた人生をトータルで見た時に「こんな人になりたい」と思えるような社員は誰一人としていませんでした。誰もが仕事に飲みこまれていたからです。
仕事が忙しいのは「仕方がない」、「背に腹は代えられない」と何度も聞きました。会社の労働組合は、このHD工場の状況はやむを得ないと考えており、何のストッパーの役目も果たしていませんでした。