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6月9日(水)僕の憧憬と先達の見出だす梅雨の歌

 暑い。
 夏日だ。空は青く日差しは強い。エアコンをつける。教室を閉め切るわけにはいかない。二度目のコロナの夏が来た。

 小テスト中に窓を見た。三階より高い松の先端が空に向かい、白雲に飾られていた。

風誘ふ空に白雲天蓋の縁には柔き波触れるらむ

☆ ☆ ☆

 夏の歌を探して勅撰集をめくってみても、ほととぎすの歌が多くてうんざりしてくる。そこで自分以外の目に頼ることにした。

 渡部泰明『古典和歌入門』(岩波ジュニア新書 2014)で取り上げられた最初の夏の歌はこれだ。

五月雨は美豆の御牧の真菰草刈り干すひまもあらじとぞ思ふ 相模
                      (後拾遺集・夏・二〇六)

 五月雨、つまり梅雨を歌っている。真菰草が何か分からなくても、刈り取って干すべき物で、梅雨の間はそれができないほど雨が降っている、という状況は分かりやすいだろう。
 分かりやすいだけに、何が良いのか分からない。ただ雨が降り続いている、というだけではないのか。

 この歌について、渡部はまず「美豆」と「水」の掛詞を指摘し、こう語る。

 「美豆」には「水」が掛けてあって、広々とした美豆の御牧一帯が、水浸しになっている光景が浮かんできます。高々と成長しているはずの真菰さえ、水没して頭のほうくらいしか見えなくなっている、そんなイメージです。

 美豆に水が掛けてある、というのは良い。濁音だから現代人には気づきにくいが、五月雨を歌っている歌で「みづ」と来たら「水」を連想するのは自然ではある。
 しかし「水浸しになっている光景」、これは思い当たらなかった。「ひまもあらじ」は刈り干す時間が無いことの意味の他、水から顔を出す地面が全くないこともイメージさせるということか。

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 さらに解説は続く。

 五月雨はただでも重苦しい。外に出れば濡れたり汚れたりするし、食べ物は傷みやすい。雨を厭い、逃げ腰で後ろ向きの気持ちでいるとそうなる。でも、雨の中に出てみたらどうでしょう。ずぶ濡れの泥まみれに自分からなってしまえば、いっそもっと降れ、という気持ちになるのかもしれません。相模の歌もそんな雰囲気があります。真菰を刈り干せなくてももういい、どんどん水浸しになってしまえ、とでもいうような開放感や力強さを感じませんか。美豆の御牧という広々とした空間いっぱいに増えていく水、というイメージがそう思わせるのでしょう。
 「あらじとぞ思ふ」という言い方も重要です。
   わが宿に咲き満ちにけり桜花ほかには春もあらじとぞ思ふ
              (後拾遺集・一二六・源道済)
 これは桜の歌ですが、私の家に桜が咲き満ちている、他には春はないだろうという。けれども他のところのことが言いたいわけではありません。わが家の桜が最高だ、と強調したいのです。相模の歌でも、真菰を刈り干せないことそのものではなく、雨が降り続いていることを強めたいわけです。
 そして、その力強さは、いつしか自然の雄勁さにつながっていきます。相模は、雨を降らせ続け、季節を動かしている力に感応し、それを言葉にしてみせたのです。人々もそこに感動したに違いありません。

 なんと、「あらじとぞ思ふ」は水浸しにする雨を自然の雄勁さととらえ、その感動をいう表現だった。相模は長雨の気の重さを突き抜けた先に、美景を生ぜしめたのである。

降り続く梅雨時の雨
美豆の御牧は水浸しです
真菰草だってすっかり沈んでしまいました
刈り取って干すゆとりなんて
無いのだろうと、思います



 

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