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《新古今集》月と涙

いつまでか涙曇らで月は見し
秋待ちえても秋ぞ恋しき
    (秋歌上・379・慈円)

 月はまぼろしをまといます。遠くの友人、親兄弟、そして恋人。
 しばしば自らの憂愁も投影されます。
 だから『新古今和歌集』にもこんなやりとりが載せられました。

 月を見てつかはしける      
見る人の袖をぞしぼる秋の夜は
月にいかなるかげかそふらん
    (409 藤原範永朝臣)
   返し
身にそへるかげとこそみれ秋の月
袖にうつらぬ折しなければ
     (410 相模)

 月を見る人、つまり自分が袖を絞るほど涙を流していることを示し、涙を誘う月に恋人である相模の幻影を見いだしていることをほのめかす範永。対して同じ月を自身の憂いに寄り添ってくれるものとみる相模。相模は相手の恋の訴えをはぐらかしているわけです。もちろん歌を返しているわけですから、脈なしというわけではないのですが。

 慈円はこうした月の文化をふまえています。月はいつしか思いを宿らせ慕情を引き出す文化装置になっていたのです。

 とはいえ慈円は月がそのような文化装置になる以前の時代を恋うているわけではありません。どちらかと言えば求めているのは幼少のみぎり、家族とともに無心に見上げた月でしょう。現代的な感覚で言えばこんな月でしょうか。

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 憂いも知らぬ幼少期には、月はひたすら美しいものでした。しかし少年はやがて大人になり世間を知り、恋も憂いも挫折も失意も経験します。またそうした経験を味わった先人たちが月に見出した思いを、漢詩や和歌を通して学んでいきます。やがて月には自らの経験と先人たちが積み重ねた文化とが重なり合い、一つに溶けていきます。自らのものとも先人のものとも判然としない様々な思いを涙とともに引き出す装置としての月が完成するのです。

 慈円はすでに、そうなってしまいました。文化人として完成し、月に思いを抱かずにはいられなくなってしまいました。涙をたたえず眺めることができなくなってしまいました。
 知ってしまった今は、知らなかったかつてに戻ることができません。そうなった今であるからこそ、そうでは無かった昔を恋うのです。

 以上は上句「いつまでか涙曇らで月は見し」の解釈です。実は同種の表現が少し前の時代の歌に用いられています。

身の憂さの秋は忘るるものならば
涙曇らで月は見てまし
(千載集・秋上・298・藤原頼輔)

 つまり月へのこの解釈はこの時代、広く深く共有されるものだったのです。だからこそ下句「秋まちえても秋ぞ恋しき」が、その先の思いを掘り下げて感動を呼びます。

 慈円は月がひときわ白く輝く秋を求めてその時を得ました。しかし得られた秋は、求めた秋とは違います。
 「秋待ちえても」。切望して邂逅を果たした秋は、すでに悲しみと憂いに彩られていました。
 「秋ぞ恋しき」。ひたすら美しいだけの月を浮かべるあの秋は、もはや郷愁に導かれる記憶の中にしかないことに、ようやく気づきます。現実には得られぬ無心の月を恋うて恋うて、届かぬことが分かってなお恋うのです。

 慈円がたどり着いた秋への憧憬。それは、幼き自分を抱き上げてくれた亡き母を求めるかのような、澄んだ慕情に近づいていくのでした。

海渡りリオデジャネイロに出る月は
ラテンの恋にも泣いてるだろうか


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