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伊勢物語89 神は無実だ

1,本文と現代語訳

 昔、いやしからぬ男、我よりはまさりたる人を思ひかけて年経ける、
   人知れず我こひ死なばあぢきなく
   いづれの神になき名おほせむ

 男は「いやしからぬ」で、思い人は「我よりはまさりたる」。後の段になりますが、九三段の「男身はいやしくて、いとになき人を思ひかけたりけり」と好対照です。本段では女性側の身分が高いとはいえ、隔絶しているというほどではありません。だからこそ男は気持ちを捨てきれなくて「年経」てしまったのでしょうね。
 突然死の理由を「神」に求めるだろうという理屈には、仏教文化からの距離を感じます。もう少し後の時代なら「いづれの神」ではなく「いかなる契り(=前世からの因縁)ありと言ふらん」などと歌われたでしょうか。

 和歌中では「あぢきなく」が主題です。
 男の死因を世間が理解しないことが「あじきな」い、つまる「つまらない、情けない、不本意にも」のです。本当は自分は恋に悩んで死に至るというのに、世間はそれを知らないためにどこぞの神の祟りだと噂をするだろう、それがつまらないのだ、ということ。
 恨めしさの表現が回りくどい!

(現代語訳)
 昔々、身分が低くはない男が、自分よりは身分が上である人を慕って長年が過ぎた。
   人知れず恋して死んだらああ無情
   どちらの神のせいになるのか


2,コブンノセカイ

●「恋ひ死ぬ」ということ

 恋をこじらせて死に至ったり死を予感したりする展開は『伊勢物語』でも珍しくはありません。例えば東下り中の十三段や十四段。また二四段で男を追いかけ指で血文字の歌を書き亡くなった女性。また四十段で親に恋人を追い出されて仮死状態になった男。

 こうした発想はすでに『万葉集』で一般的でした。『万葉語誌』では「しぬ【死ぬ】」の項で次のように説明します。

 恋の極限の状態として、恋い焦がれた挙句に死に至る「恋死に」を歌うのが特徴で、恋の切実さや苦しみの誇張表現となっている。

 この説明に合い、また『伊勢物語』の歌によく似ているのが次の歌です。

吾妹子に吾が恋ひ死なばそわへかも
神に負はせむ心知らずて
(万葉集・3566)
恋人に
私が恋してそのまま死んでしまったら
????
神の祟りのせいにすることだろう
私の心も知らないで

 よく似ています。『伊勢物語』の「あぢきなく」の代わりに使われているのは「さわへかも」。『日本国語大辞典』には「品詞、語義未詳」とあります。肝心の部分の意味が分からないというのもなんだかミステリアスですね。


3,レッツアクティブ

 今回も『仁勢物語』を参照してみましょう。

 をかし、賤しと云ふ男、我よりは勝りたる人を相手にて、こひ合打ちける。
   人知れず我が小鼓は味も無し
   いづれの流に打ちも直さん

 今回は恋から能に主題を変えています。「こひ合打ち」は日本古典文学大系では次のように注されています。

能楽用語。大小鼓または大小太鼓の一手。太鼓入または大小鼓の囃子の一段落に打ち、この手の内またはこれを聞いて次の謡を謡い出す。(以下略)

 僕は能に疎いので、注されてもなんのこっちゃかさっぱりわからないですけども、とりあえず能の話に転換されていることはわかりました。
 歌は転換を受けて 

人知れず私の小鼓下手糞だ
どこの流派で打ち直そうか

と訳せます。「人知れず」がやや浮いていますが、パロディならではの味わいとしておきましょう。

 さてアクティブラーニングとして、『仁勢物語』にならいパロディを作るということを課します。その際に「恋」以外の主題で作りなおすというルールを設定しておきましょう。芸事だけでなくスポーツや勉強、人間関係や仕事を主題にしてみると良いでしょう。出だしは「昔」でも「をかし」でも、音を合わせた別の語を用意しても構いません。


(作例)
 空しい。仕事の上手くいかない男が、自分よりは少し仕事ができる同僚に先に出世をされた。
   人知れず我が朝食に味は無し
           いづれの医師に相談しようか

 コロナか、鬱か。

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